必用とされることの必要性

人から必要とされることで自分の必要性を埋めようとしている人達がいる。 そう、依存や共依存関係のようなね。 しかし、人から必要とされることで自分の必要性、すなわち自分の価値を証明しようとするなんざ、他力本願、利己的な手段だ。 しかも多くの場合、必要とされているようでいて利用されてしまっていることも多い。

だから実態は、やってもやっても満たされない。 依存的な、他力的な証明方法では、「自分は必要か」「自分は価値ある人間か」「自分が生きてる意味は何か」などの答えはでない。 それらの答えを出したければ、今やっていることが、「いくらやっても意味がない」「不毛なこと」と,、先ずは気づくことだ。

必要性からの脱却

人から必要とされたいという発想は、裏を返せば、 『自分の生きる根拠を世間に求める』という、いかにも甘ったれた依存的発想だ。 だがしかし、親からありのまんまの自分を認められた記憶のない人にとっては、 この発想が最小で最大の、自分の生きる証となりうる全てだ。 「必要」を正当化し、「必要」にぶら下がり、「必要」に執着し、 全ての言動がこれに終始する。

でもこの発想は時に、 『自分が他人の迷惑にならないようにする為ならどんなことでもする』 という危険を招く。 それはなんともナンセンスな、でも、どうしようもない、 正に暗闇を手探りで歩くような、不安で恐怖な世界だ。 しかしいくら頑張っても、最終的な必要証明証など取れるはずはない。 なぜならそれは、先に書いた『恐怖の土台』からの発想であり、 必要であり続けることでしか不安や恐怖から逃れられないという、エンドレスな、 無縁地獄の世界だからです。

また、必要とされたい相手が「世間」の人である以上、 少なくとも「世間並み」つまりは「世間的普通」でなくてはならない。 しかし、どうあがいても自分は普通にはなれない、普通ではいられない。 これが今までの苦しみだったのではないですか? じゃあどうしたらいいんだろう… って?

そこから脱するには、自分らしく、自分のまんまで生きる、「オリジナル宣言」をすること。  と、そう言えばカッコよさそうだが、実のところオリジナルとは、 世間にふたつとない 変わったものだと認めることでしかない。

依存型世界の流儀

『自分が自分の責任に直面できないから人を甘やかす。』 これが、依存型人間の住む世界の流儀だ。 子供の尻拭いをし続ける過保護親や、夫の世話を焼き続ける妻、その両者に当てはまるのがこれ。 私がしてあげなくちゃこの人が壊れるから、困るからといいつつ、子供や夫のフォローをし続けることで自分の問題から逃げ続けられる、自分が逃げたいからフォローをし続ける。 直面している問題から目をそらし、問題を棚上げする、正に依存関係でのワンパターン。

逃げ続けるも、依存関係も、悪いことではないし、それが楽な人達にはいいけども、そういう両親の元で育てられる子供は大変だ。 だって、何が責任かを教えられていないので、何が甘くて何が厳しいのかもよくわからないまま、頼ってくる親に冷酷非道なことは言えず、そのまま親を背負わされる。 その世界には、自分の意思を持つ という発想もなく、自分に責任を負う という意味も解らない。 ただ、『自分の問題から逃げて良い』 という流儀がまかり通っていく。

依存関係の行方

自分が相手から必要とされることを求め、その相手が自分を必要としていることを確認すると、その関係は、必然的に依存関係となりやすい。 例えば、ダメ男に献身的に尽くす女として象徴されるような、相手の自己責任をひたすら尻拭いすることで、相手のアディクションを重症化させているケース。 子供に自らの思考の習慣を身に付けさせず、威圧型なコントロールで不安を掻き立て、責任を義務にすり替えられたケース。

いずれも、互いの自己責任は宙に浮き、関係性は表面的。 しかし片方では、ただ相手を怒らせないことにビクビクして、ご機嫌を取り続けてしまうだけとなる。 そう、依存関係の中では、それぞれの責任が宇宙の彼方に丸投げされて、 行方不明になっている状態なのです。 この状態、どちら側の人にも、依存関係から逃れたくない理由がある。 自分の存在価値を相手に求める というか、 簡単に優しく言うと、‘さびしくてたまらない’。

これは、痛いですね、 とても解りますね。 それだもの、止められない。 さびしさが依存によって紛れるなら、ずうっとそうしてたいですからね。 自己責任?それどころじゃあないですよ。 自分が自分でいられなきゃ、責任など取れないですからね。

依存関係、でも、それは麻薬みたいなものです。 一時のやすらぎは、夢みたいなもの。 だから、冷めるのも早く、いつも不安がつきまとう。 相手に頼っているうちは、もちつもたれつ、やじろべえのように不安定だからね。 そのさびしさは自分のもの、だから自分が埋めてくほか、手立てはないんだよね。

だけどね、人間だもの、 頼らせてくれる相手は欲しいよね。 互いにそれをわかって、互いに見守り合えたらいいんじゃない。 互いにそれをわかって、自分のこととして、理解しあえたらいいと思うけどなあ。

共依存的関係からの脱却

「心配だから任せられない」という不安のある人が、 自分の不安に我慢できずに人と関わると、 相手の意志や考えを尊重することを忘れ、 相手の行動を規制・管理してしまうことがある。 特にこういう親が子供に接するとき、その子供が、 「自分で考えたくない」或いは「黙っていればやってくれる」と思ったとき、 その関係は、共依存となりやすい。 この関係が、一旦できあがるとなかなか脱出できないのは、 お互いの弱さを互いに利用し、互いに利益を得ている点にある。

そう、どちらも育っていないというか、親に育っていない箇所だもの、 どうにも教えることができないのだから、これはある意味、仕方が無い。 どちらも育っていないのだから、互いに依存・寄生し合って生きるしかない のも頷ける。 だからこそここから脱出するには、自分のしていることに苦しさを感じたり、 相手から被害を被り、自分の得(とく)が得られなくなってきた時でしかない。

ということは、お互いがよければその関係は続くし、それを誰に咎められようとも 構う必要は無い。 共依存とは、それ故に解りにくく厄介で、逃れられない関係なのです。 こういう親の下、一番の被害は、そういう親の問題に気付かず、 自分で考え行動したいのに、当たり前のように 『管理』 『依存』 される子供達。 彼らはそれが問題だと気付かずに、唯一無二の親を、当たり前のように受け入れてしまう。 害虫とも気付かず、ただひたすらに寄生させ、自分がむしばんで行くのに 気付かないようにね。

…と、今回はそういう話ではなく、話をもどして、 そこから脱却するには、 「心配だから任せられない」という、自分の不安から相手(子供)を依存させてきた人は、 「任せてどうなるか解らない」という不安に自分が耐えられるかどうかであり、 「自分で考えたくない」 「黙っていればやってくれる」と依存してきた方側の人は、 「やってもらえない」 或いは 「指示などもらえない」という不安に耐え、 自分で考えていくことを身につまされる必要がある。

お分かりのように、どちらにも「不安」があり、どちらも、その自分の不安と 向き合わなければ、自分だけの人生を勝ち取ることはできない。 この作業の大変さは、今まで二人三脚のように互いを庇(かば)い合ってきた二人が、 ひとりで自分の不安と向き合えるかどうかだが、 その不安の裏側にある、極度の見捨てられ恐怖や承認欲求が頑固に絡み付き、 元の共依存関係がなくなっても、他の寄生主を探してしまったりと、 本人にとっては、麻薬中毒から抜け出るような苦しい作業だ。

脱却の意志がどんなに強くても、その意思とは関係ないところで抗(あらが)ってしまう自分。 だからこそ、的確にナビしてくれるサポーターが必要なのです。 共依存に気付きそこから脱却を果たしたい方は、このカラクリをご参考ください。