自尊心

自尊心を満たし、自他尊重、自他承認の、そんな関係を手に入れましょう

いつも他人が気になり、他人に気に入られるように振舞っている人は、他人の判断が 基準となった行動をとりますので、どうしても自分には優しくなれないでしょう。 相手の為にいつも努力している、そういう状態です。 けれども、そうしていればそれなりに認めてもらえるというか、何となく求められる ことによって安心感が得られたような気になると、それは加速され、更に尽くしていくのです。

そういう相手との関係が、例えば恋人や親など特定の関係性では更に密度が濃くなり、 どちらかというと、ギブ・アンド・テイクというよりは、ギブ・アンド・ギブ(与えるのみ)に 近くなっていきがちです。 つまり、「与える」という条件つきの行為と引き換えに「承認」を戴くという、頭を なでてもらう為に全てをなげうるような、全くのデタラメな交換によって歪んだ関係性が成立してしまうのです。

そうです、だからいくら与えても尽くしても何かがしっくりこない、満たされる実感が 沸かないのです。 自分がありのまま、無条件では受け入れてもらえていないという事実に気づいて下さい。 それどころか、自分の自尊心がとっても傷ついているという事実に目を向けて下さい。

自尊心とは、そのまんまの自分を尊重するということ、自分の気持ちを無視しない、 認めるということです。 それは、自分の苦痛や痛みに正直になることです。 自尊心とは自分が自分でいられること、 それほどすごい事はありません。 私ってスゲー!俺ってスゲー!生きてるだけでスゲー事、そういうことです。 自分の自尊心を蔑ろにしなければ手に入らない承認など、本物ではありません。が、 それ程欲しい、という自分の気持ちなんでしょう。

承認とは、自分の自尊心が満たされ、自分が尊重できてはじめて満たされる欲求です。 承認欲求の強い人は、自分の自尊心が低く、傷ついている方が多いようです。 過去のどこかで傷ついた、満たされなかった想いです。 奇跡的に、無条件で受け入れていただける方に巡り合った人は、少なからず、 しだいに自分の傷ついた自尊心が癒され満たされていかれるのでしょうが、相手から 承認を求めるが為に、他人尊重に終始していては、いつまでたっても満たされません。

いつか巡り合えるという空想の世界から早く抜け出て、他力本願を辞めて 、自分で掴む決心をされて下さい。 自分を尊重し他人も尊重する、自分も他人も承認する、 そんな対等な人間同士の関係を手に入れるため、現状を正確に感じなおしてみて下さい。

他尊心は自尊心に比例する

自尊心のない人に、他尊心はない。他尊心を持ちたければ先ず自尊心を育てること。 自尊心とは、自分自身を大事にでき尊重できること。 自分自身とは自分の本心から考えていること、感じていること。 大事に尊重するとは、その自分の考えや感じていることを許し従えること、守れること。 他尊心というのは、自分と同じく他人の考えや感じていることを尊重できること。

大事なのは「自分のことを一番大事だと言い切れるかどうか」です…それって身勝手で自己中な人じゃん、て思いました? そう、多くの人はそれを言い切ることに躊躇がある。 だからといって自分が一番かわいいのに変わりはない、だから。そう思われないようなフリをして水面下でややこしく動き回ることになる。 これこそ自己中なんじゃないの? 「自分がかわいい」「自分が一番」で何が悪い?ちゃんとその気持ちに許可を与えられることから自尊心への責任が生まれる。

簡単な例でいうと、 ティータイムの時、日本茶を飲みたい自分と紅茶を飲みたい人がいたとき、自尊心のある人同士なら、互いに飲みたいものを飲める。 ひとつの飲み物しか飲めない場合、自尊心があれば、話し合いができる。ここで自尊心のない人は、自分の気持ちをハナから引っ込めて、相手に同調したり諂(へつら)うことになる。 つまり、自分の美徳的行為がストレスを生み、怒りの蓄積となるということ。

ここで、自分がどうしたいのか、自分の気持ちが全く出てこない・分からないという方。そういうあなたは、自分の自尊心どころか、尊厳自体が確保できていないのではないでしょうか? それが生き辛さとなるのです。 先ずは気づくことから、どうぞその気づきを大切に!

愛について

愛を語る前に、勘違いのないよう、少々、人間について理解しておきたい。 私ら人間は、人に与えたら自分も欲しいと思うし、もらえなければ寂しくなったり 悔しくなったりすることもある。 それが生身の人間ってもん。 与え続ければいつか貰えるとか、愛し続ければ愛される? そんなことない、 そりゃ錯覚。 人間だもの、一方通行だけじゃ物足りなく感じることがあったっていい。 生きてるんだもの、神様とは違うからね。

愛って、自分側の気持ち。 相手に対する自分の気持ち。 心地よさだったり、安心感だったり、満足感、いとしさ、そういう自分の、 自分側の極上の気分、味わいなんじゃないかしら。 だから愛には色々あっていい。 押しまくる愛、見ている愛、奪う愛、ストーカーの愛、待つ愛、殺す愛、 つまり全てが自己愛。

慈悲を無償の愛という人がいる。 与えた見返りを求めない愛だというが、例えば親が子にしてあげることが喜びなら、 それも、そういう自分の自己満足、してあげる自分への自己愛でしょう。

では、見返りを求めたら愛とは呼ばないのか? いえ、冒頭に書いたとおり、 私ら生身の人間ですから、見返りを求める有償の愛もあっていい。 人間、こっちのほうが多いんじゃないかしら。 つまりね、無償の愛だけが愛じゃない、 人間が愛するんだから見返りが欲しくなったっていい。 要するに愛というのは、見返りを求めようが求めなかろうが、それに関わらず 自分が相手に釘付けになっている間の、自分の喜びの気持ちなんだと思う。

だから無償だろうが有償だろうが愛に変わりは何も無い。 ただし、親から有償の愛を受けた子は、愛とはどういう気持ちなのかが 気づきにくい。

人を愛するということ、それは自分を愛すること。 誰もが心の奥底に巣くっている無限のエネルギーなんだと思う。 ところで、愛と憎しみは裏返しというけれど、憎しみも愛のうちかもしれないね。

自分を愛するということ

自分を愛するということは、自分の持つ感情を許すということ。相手を愛し自分を愛するということは、 例えば1つしかないケーキを全部相手にあげるのでなく、 半分自分が食べることを許すということです。 自分の欲求を許し、相手の欲求も認めることです。

自分を愛するということ、つまり自己愛というものは、 極端に言うと、自分が一番だということ。 1つしかないケーキなら、独り占めにすること、 或いは、最大限、それを6対4に分け、6を自分、4を相手にあげるようなもの。 だから、それを半分づつに分けるということは、最大の、 自分を大切にしつつ相手を大切にするということなのです。

思いやりを知るには、先ず、自分を思いやれ!

人を思いやるには、先ず思いやりがどういうものかを、自分で体感することです。 例えば、大勢の中でひとり盛り上がれない人がいても、盛り上がらせようと 誘導することが、思いやりとは限りません。 その人が、励まされたり勇気付けられることを望まなければ、それは 思いやりにはなりません。 その人が、ほっといてほしければ、ほっとけるほうが思いやりに当たります。

そうです、思いやりとは、その人の気持ちを認め、尊重できること。 励ましや勇気付けなどいらない。まして、代行してあげることでもない。 盛り上がれないということに、評価やダメ意識、劣意識がなければ、必要以上に 反応はしないもの。 その人の問題として、その状態を認めてあげるだけでいいのです。

思いやりを知るには、先ず自分を思いやってみること。 自分を大切にでき、自分の気持ちに添えることの安心感を知っている人は、 相手の気持ちをいじりません。 物事や状態を、善悪や優劣の目で見ないので、出来るだけ、そおっとしておけるのです。

恋はステイタス

恋はステイタス。 アイドルを思う気持ちと似ている。 ちょっと憧れ高望み、 だからドキドキ非日常。 こんなこと言ったら相手にしてもらえなくなる、 こんなことしたら嫌われると、 ときめきに引っ張られ我を忘れて夢の中。 あーなったらいいな、 こーなったらいいな、 ステイタスに酔いしれ心ここにあらず。

あの人が好き、ときめく気持ちの自分が楽しい。 恋は盲目とはよく言ったもんだ。 だけどホントにほしいのかはわからない。 等身大の自分のまま、対等な関係、素顔のままでいられなきゃ 長続きなどできはしない。 恋から覚めて、現実に目覚めたとき、リアルタイムが初めて始まる。

パートナー選びについて

パートナーを選ぶ際に、多くの人は、優しさや思いやりの気持ちを大事にするでしょうが、 それが本領発揮される最もわかりやすいのものに、セックスがあります。 セックスは、相手との間にある安心感が奏でるリラックスの極み、 愛おしさから生まれる自然な結びつきの行為です。 なんか、気取った言い方になっちゃいましたね。 相手への思いやり、即ちそれは、相手の喜びを自分の喜びとできるかですし、 セックスの極みは、そういう者同士ならではの、無防備な脱力感の中で感じれる 最高の心地良さです。

セックスは互いの本能が結びついた結果のデキゴト… な~んて当然なんですが、 むき出しの本能だけで相手の心をゲットできる訳はない。 いくら口で上手いことを言っていても、いざセックせスとなったら自分勝手、 自分さえ良ければ相手がどうであっても構わないといった心がけのエゴイストに、 奥深い本能が揺さぶられるでしょうか。 オスの本能をさらけ出しつつ、痛くないか苦しくないかと気配りし、 自分と同じように相手も喜ばそうとするなら、 当然相手とセックスについての会話が生まれる。

そして、この人は私の嫌がることは絶対にしない、自分を大切にされていると 感知できたとき、本能はビブラートし、そういう相手にこそ 自分の性を心から任せられるのです。 それがお互いであってこそ、男として女としての極上の快感も味わえるのでしょう。 自分だけの気持ちよさ、コンドームを付けない、相手にピルを飲ます、 そんな男に、女としての喜びを感じさすことができるでしょうか。

逆もしかり、勝手な要求だけでは、そんな女に本気なオスの本能など発動しっこありません。 パートナーとして、男女の番(つが)いとして仲むつまじく過ごすには先ず、 自分の性を受け入れることです。 男として、女として、自分が幸福になりたい と自認すること。

その上で、
1、自分を愛せること
2、同じだけ相手を愛せること

この二つが同時進行せずしてパートナー成立は無い。 自分の解放は、自分の性の解放でもあります。 自分の嗜癖、性癖に苦しむ方々は、自分のそれらを「恥」だと思ってらっしゃいます。 それは、その方々のそれらが、人一倍偏りがあるからなのでしょうが、 実はそこから「恥」を取り去ったときに残るもの、 それが、「恥じらい」であり、 それが他人にはない「魅力」なのだということを、よく覚えておいて下さいね。 そうそう、だから、オカマであることを自認され、 カミングアウトされた方々が魅力的に見えるのも、頷けますね。

自尊心と正論

自尊心と正しさの関係は少々厄介です。

正しいことさえしていれば、また正しくできていればある種の自信は持てるでしょう。ですが、それが自尊心に繋がる訳ではありません。

自尊心とは自分を大切に思える心のこと。ですから例え間違っていたり自信がなくても、そういう自分を支持できる心でいられることなのです。

正しさは大切、ですが正しいだけで済まないのが人間の心。 優しさもあれば憎しみも感じる。 正直にもなれば誤魔化しもする。 笑うことも泣くことも、怒ることもある。 そういう時の自分の心を愛おしく大切にしながら、正義でも悪でもない自分のままで、そういう自分を支持して生きれることなのです。

正しさを求める人は、人にも同じです。しかし自分のままを支持できることは、俺は俺、私は私、そして貴方は貴方でいいということで、そこに傲慢さはありません。 自分に満足していたら、人を非難したり支配したくはならないのです。それが他人を尊重するということ、他尊心は自尊心に比例するということです。

正しさを知っていることは大事です。が、正しさが自分の自尊心を閉じ込めてはいけないのです。