怒り(こころの図書館)

こちらも参考にしてください:1怒りについて(コンテンツ)

怒りと甘え

お客さんと話をしていると、多くの人に感じるのは、 相当な怒り(恨み)と相当な理解されたい(甘え)願望の 2つを持っているということです。 そういうものが組み絡みあって、自分の心を閉ざしています。 それらが、いつからどうのようにこうなってしまったのかは人それぞれですが、 その人達にとっては、こうなってしまったのが当然であり自然な現実です。

心の水面下で起きていること

人は皆、隙あらば甘えたい生き物です。 『甘え』とは、人と人とが関わる中で大事なコミュニケーションであり、 人が育つ上では必要不可欠な要素です。 例えば、心を閉ざしながら人生を放棄している人でも、閉ざしながらも本当は  そういう自分を解って欲しいと願っており、『甘え』の気持ちを満たそうとしています。

しかし現実はそう上手くは行かない。 心を閉ざしているもの、それは根底に潜む怒りです。 この怒りが自然なストレートな甘えたいなどという心を抑制し、 スネたり、放棄したりしてしまいます。 ですから、甘えたがっている気持ちを癒そうとしたり、或いは、 誰かがその人を甘えさせても根本解決にはなりません。

ではどうするか?その怒りがなんなのかを自分が理解することです。 その怒りが自覚されにくいのは、それを押さえ込むために 『怖い』『怖がる』という感情を自ら興しているからです。とても厚い壁のように立ち塞がっていて、その中を見せないようにしています。まるで門兵のように守っているのですよ。 だから、その門兵である自分と、先ずはお話。「その先に用があるんだ!」 と引き下がらないことです。

恨みの感情

心の奥底に怒りや憎しみを抱えている人は多い。 しかしその多くの人は、それを自分では無自覚に抑圧させ、 表面的には良い人を装う。 ある時期から生まれた怒りが憎悪に変わり、その相手、その相手達に納まらず 人間全てを恨んでいく、それは並大抵のことではない。 おそらく、その歴史には計り知れない迫害があったのだろう。 例えるなら、孤児が更に虐待されるようなもの。

「恨み続けます」は、「許しません」ということ。 許さないという強い気持ちだけが生きてる支えと言ってもいいほどで、 しかしそれが自分を被い、その気持ちに呑み込まれ、 自分のあるがままを封印し、言動を規制する。 そこから脱するには、先ずは自分の中にそういう、それらしきものが渦巻き はびこっているという事を認めること。 そして、恨んでいても何も生まれない と片付けるのではなく、 その、憎悪らしき感覚を、ちゃんと感じようと決めること。

その昔、追い詰められたところから始まったその癖(憎むとか怨む)も、 したくてしたことじゃない。 でも、それが生きてる意味にすらなっているのだから、 それが片付かなければ、死ぬに死ねないだろう。

ストレスの正体と怒る気持ち

ストレスの正体、それは、思い通りにならず「怒る気持ち」です。 あなたが奥底で感じている数種の苛立ち、ムカつき、悔しさなどの怒りたい感情、 それらを感じまいとして自分を押さえ、ぐっと我慢をしている状態反応です。 怒りは出してはいけないもの、その考えが自分を抑えます。 怒りは感じてはいけないもの、そういう考えが自分を苦しめます。

確かに怒りを感じたら出てしまうかも知れないので、 出さないためには感じないことが一番、 それがさらに自分の感情を抑圧し、自分の気持ちが全く解らなくなる方向に 拍車を掛けます。 怒る気持ち、その気持ちのどこが醜いのでしょう。 私は、「怒る気持ち」こそが、人間が一番初めに感じる、正直で純粋な、 一番きれいな感情だと思うんだけど。

ほら、 赤ちゃんが、お腹がすいたぞ おしっこ出て気持ち悪いぞ と 泣きじゃくるような時と同じ。 それが怒る気持ち。 そういう状態をほっとかれるときに感じるもの、ストレス。 でも、もしそれを無視されたり、適当にあしらわれたら、 怒る気持ちは悲しみ、或いは憎しみへと変わり、 自分の全ての感情を呑み込み、自分放棄、人間不信となるでしょう。

「怒っていいの? それじゃあまるで、うちのお父さんが正しいみたいじゃない?」 と、そういう人々がいます。 いえ、それとは違います。 自分の怒りに呑み込まれた人間は、お父さんのように 理不尽な攻撃をすることでしか自分を保てないのです。 しかしそれらによって苦しめられてきた人々は、そういうお父さんのようにもなれず、 反面教師のように、自分の怒りを封じ込めることで生きながらえています。

生きてる以上、ストレスは少なからずあるものです。 しかし、そのストレスの正体をきちんと把握し、そこにある感情を理解できると、 自己納得のもとに次の行動を取ることに繋がるでしょう。 少なくとも、過去の、今までのストレスの正体を掘り起こすことで、 今の自分が感じるまま生きていくことは可能です。

馬鹿にしない、されないこと

人を馬鹿にしてはいけない。 誰もがそんなこと教わってきたけれど、 多くの人が、人と自分を比べながら、「ああはなりたくないものだ」とか「まだ自分の方がマシ」と感じることで保っている。 不安の払拭、安心したい気持ち、それが源。 しかし、その路線にいる限り自分の本当の個性は育たない。 「個性なんていらない」なら、まあそれもあり。 でも自分らしく生きたいなら、馬鹿にすること・されることの路線から外れることだ。

「無価値な自分」を装い、自己否定しながら皆の中に居られた過去、 自分も皆の数に入れられることが至上命令であった過去。 でも、人から馬鹿にされることほど人間の怒りを生むものはない。 その怒りの蓄積は相当なエネルギーとなり、恨みとして育つ。 そう、「うらみ」の殆どが、人から馬鹿にされた、或いは馬鹿にされたと思い込んだことから始まる。

「馬鹿にされたと思い込む」とは、その根本の部分に、本当に馬鹿にされた経験があり、その悔しさがトラウマやコンプレックスとなり、関係のない人にまで及んでいくことです。 人は、誰かからからかわれ続けると、大概、人にビクつくようになる。人の生態反応としては正常な反応。中には逆に、表面的にその相手を、腕力や知力などの力で捻じ伏せてしまう人もいるが、馬鹿にされた怒りが消えることはない。 そして、訳あって馬鹿にされても平気を装えていた人たちは、そういう時代を通り過ぎると、無気力になる。これまた人の生態反応としては正常だろう。 何故なら、愚弄され続けて平気な人はいない、だからこそ自分の感情を押さえ込むことで適応しようとするのです。

この過程の中で、稀に殺人鬼が生まれることがあるが、これもまた、あってはならないことだが気持ちは理解できる。 「自分が馬鹿にされてきた」ことを認めるということは、「自分が誰よりも劣っている」ということではない。 ないけれど、何故馬鹿にされたのか、その理由をきちんと理解・納得できたとき、その怒りは流れる。 それを通り過ぎ、それまでの自分をきちんと認識しながら、 「やっぱり悔しい」という自分の尊厳の声を聞き取ること。 その声が聞こえ始めたならもう大丈夫! どこかで引っ込めた「悔しい」という気持ち。 それを取り戻せたとき、自分の人生が動き始める。

恨むということ

私が恨んでいたもの

人を恨んだことがありますか?もしくは憎んだことはありますか? 私の体験からわかったことを改めて整理してお伝えします。

自分の中で悔しさや憤りを出し切ったり、憎み切る、恨み切るということは、 自分が過去に決別し、今に生きるためにできる最善であり、 自分に対する最高の優しさです。 私は、随分、世の中の理不尽に対して憤り、嫌悪し、反応してきました。 例えば、善人ぶりながら権力を笠に支配する、公平平等と言いつつ偏見でレッテルを貼る、 気持ちを無視し思い込みで評価する、従順を好み意思を持つものを迫害する、 そういうものに関わるごとに戦ってきました。

私が問題視していたのは、権力や支配や迫害そのものではなく、 それらを使っていることを認めない誤魔化しや摩り替えですね。 指摘し説明しても、理解しようとされないばかりか逆ギレされたり、 更に権力を行使されたり。 世間の同じパターンに敏感に反応する自分が気になって仕方なく、 そういう自分を深く、深く感じ続けていました。 そうしてそういう理不尽を体験し、考え、あるポイントに辿りつきました。

自分の為に恨む

こういうことです。 理不尽を理不尽と把握したり、支配者を支配者と理解して憎む体験をするということは、 私が相手を憎むことによって、私はその相手に対し、 私から許される権利を与えている。 つまり、その相手をきちんと見、その事実をきちんと受け止める事で自分の憎しみの 感情を終わらせ、そうして初めて相手を赦す(ゆるす)ことになる。 赦そうとしている。 そうして赦すことによって、自分の憎しみが終焉を迎えられ、 ようやくその抑圧から自分を解放させることができるのです。

これに気づいてから、私が何故ここまで理不尽というものに拘り、 気になっていたのかが解ったようでした。 私は赦したかったのだ、ということが腑に落ち、ものすごい脱力感と共に 心地よい開放感が沸いてきました。 くり返します。 憎んで憎んで真剣に憎み切る、そしたら勝手に相手を赦してた。 そうして誤魔化しやすり替える行為を赦してた。 最も大事なのは、自分の為に憎しみを感じ続け、その憎しみと向き合うことによって 苦しんでいた自分を赦し、初めてその抑圧から解放されるということです。

大きな業(カルマ)から解き放たれる感じです。 難解なパズルがまた嵌った、そんな感覚。 楽になり、自由度がまた高まり、更に解放されました。 赦すことが善行などこれっぽっちも思ってない。 要は、自分がどうしたかったのかがわかり腑に落ちた、赦したかったんだと 納得できたら終わった、感じきったら勝手に赦していた、すっきりしたということです。

恨むことと対極にあるもの

ところで、対極の存在について触れていきます。 理不尽に耐え、従順で、穏やかでいつも感謝する、 そういう術を身につけることで、憎しみに蓋をしている人。 自分を抑え、頑張っているところが、私にはどうも胡散臭く感じられる。 憎しみは、吐き出さない限り自分の抑圧から開放されることはありません。 過去の体験で、連続的な抑圧や恐怖や不安を味わい続けてこられると、それを 思い出す事すら怖くて、なかなか語り出すのは難しいことです。

しかしそれに蓋をし、善人や善行を目指したり薄幸を気取るのは、逆に、絶対に赦さない という強い意志の印なのだとも思うのです。 憎まない代わりに絶対に赦さないなら、それも、まさに自分の人生を賭けて 怨み切るという生き様を感じさせられますが。

もう一度言います。赦しなど必要なものではありません。一生恨み続け、 赦さなくてもOKです。自分の痛み、傷、苦しみを大事に、大事にしてほしいのです。 私は、とことん気にする事で終着に近づけたに過ぎません。

お伝えしたいのは、出し切るとその延長に欲しかったものが見つかった、ということです。 理不尽という言葉をキーワードに、長いこと気にしてきました。 誤魔化しやすり替える人に出会う毎に反応し、憤り、出し切り、終え、 更にその奥にある原点(行為)に反応し続け、悩み、終え、 ようやく胡散臭さも腑に落ち、理解できたような心境です。憎む、恨むということは何も悪い感情ではありません。 我儘でも自己中でもありません、 正直な素直な自分の気持ちに責任を持つ行為です。

さて、執着とは

執着とは、深く心を奪われ囚われていくこと。 人への執着に限らず、物やお金への執着もある。生への執着もある。

例えば好きな人ができたとする。 「好き」とは・・・その人を通して、或いはその人といると自分が心地よい、 いい気持ちを感じられること、ときめくこと。 そういう、自分の中の色んな自分に出会わせてくれる相手。 相手のことが好きというよりは、ときめく自分を感じられることが喜びであり、 その為に尽くしたり何かしたくなる。

1人では味わえないので、失いたくないと思うのは当然。 そして、それが苦しくなるのは、それらが失われ、 変化することに恐れを抱いてしまうとき。 それは、自分の欲望に自分が乗っ取られてしまうから。 そのエネルギーは大きくて自分でも呆れるほどしつこい。

執着するエネルギーの原動力は「怒り」です。 失いたくない欲望の裏にある、満ち足りないものへの怒りです。「好き」という名の奥に隠された、貰えないことへの怒り、 或いは伝わらないと怒るエネルギー。 それは、もっともっと私を満足させろ!と他力にすがる自分の姿。 手放したくないのは、相手の気持ちではなく、自分の心地よさ。 なのに自分ひとりでは生み出せないからこそ生まれるジレンマ。 だから、更に執着し更に苦しむ。

心を揺さぶられる人が現れたら嬉しくなる。 感じたかったことや触れたかった自分に出会えたら、 そりゃ楽しくて仕方がなくなる、引き込まれる。 相手を縛りたくもなるだろう。 自然な人間のサガ、ないほうが不自然。 とことんやった方がいい。

でも苦しいんだよね。 執着の原動力は怒りのエネルギー。 人間の本性。 でも執着が苦しいのは怒りのせいではない。 自分が能動から受動に変わってしまうから。 つまり、「自分が与えたい」から、「私を満足させろ」と、待ちの姿勢となっているから。 人のふんどしで相撲を取るような気持ち悪さ、実際、人のふんどしだからね。

自分の気持ちよさは、自分が能動的、主体的、 自然体なときだということに焦点が合ってくると見えてくる。 夫に、妻に、子供に、恋人に、そしてお金に、名誉への欲望に、 それらに執着したところで満足はない。 麻薬による幸福感と同じ、所詮まやかしに過ぎない。

でもだからといって、手放せることが凄い訳ではない。 執着しないことが良いことでもない。 苦しいから面白い、切ないから楽しい、傷つきあうからリアル、 それが執着ゲームなのだから。

人間は、執着して執着して、執着することで自分の深さに気づき自分の深さを知る。 そんな繰り返しのひとコマは、人との関わりでしかない。 だから、迷わず、自分に正直に進めばよい。

 結局のところ、執着とは自分をときめかせる麻薬であり、その成分は自分の怒り。 そして、執着しているときの自分は受動的。 そしてそれは 自分の深さを使いきれていないことから起きる欲求不満であり、 未知なる可能性があるということ。

ということは、能動的に自分を揺さぶる新たな感動体験、つまり 受動から能動へシフトチェンジすることで執着から解放される。また、 執着から開放されたときの感動は、体感の深さに比例する。

しかし、苦しみの深さもそれに伴う。 それを、恐れず真摯に向き合うことのみに知れること、間違いなし。

この世のシステムに、やはり脱帽です。

執着、それもオツなもの

まったく、人は人をどうしたいんだろうね。 自分を理解して欲しいとか、解って欲しいと思う気持ちは、誰にでもある。 それを、愛しい相手にこそ、向けたくもなる。 自分が不安なら不安なだけ、自信があれば尚更、好きな人に 好きになって欲しいだけ、一生懸命になります。 叶わなければ叶うまで、追い詰めてしまう。 とことん思いに執着してしまう。

親とか子とか、彼とか彼女とか・・相手をコントロールしたくなったり、 嫉妬したり、束縛したりしてしまう。 理性が効かなくて、どうしようもなくって、追いかけて追い詰めて、 諦められず相手を傷つけてしまう。 解っていても止められない、理屈じゃない。

反対に、相手の期待に答えようと、自分を犠牲にしてまで尽くすのは、 それだけ相手の喜ぶ顔が見たいとか、認められる満足感のため。 相手に見捨てられたくないから。 境遇の違いや個性の違いは、やり方を変えますが、行き付くところは同じ。 どれだけ憎んでも、どれだけ悲しんでも、見捨てられたくなくて、 頑張ったり我慢したりしながら、激しく執念深く、頑固に自分らしく求める。

なんか、健気じゃないですか。 人間て、愛しさ、憎さ、可愛さ、怖さ、楽しさ、悲しさ、辛さ、寂しさ、 全部を味わいつくす為にいるんだろうな、とつくづく思います。 欲望も執着も、アジなもの、オツなもの。 よくぞ、人間に生まれたり! であります。 人は、人と関わることによって自分を探している。 みんな、自分のやり方で一生懸命なんですよ。 いやぁ、人間てすごいですね。

執着を解く

執着に苦しんでる人は、多いだろうな。 私も昔、相当苦しんできたけど。 それから解き放たれたときは、まるで難解な謎解きが解けたような開放感で、 感動とゲームオーバーを惜しむつまらなさとが、一気に訪れたようでもあった。

拘束と解放。 深い関わりを通して己を知る。 人間の凄さ、自分の深みに脱帽の境地。 向き合うことに、地獄はない。 安堵するのみ。 う…ん、文章は軽すぎる。 安易過ぎる。 まして、理性では届かない、通用しない。

切れちゃう心

切れちゃう心への扱いや理解には、その当事者はもとより、周りの人にとっても苦労が絶えない。壊したり、怒鳴ったり暴れたり、、その様は誰にも止めようもないほどの威力を放っていますが、切れている時に同時に起きていることは、自己破壊です。切れる=自暴自棄。それは「どうにでもなれ」ということで、その本質は自己虐待に他ならないのです。

例えば、周りのたった一言で切れてしまうとき…「こうすればいいのに」「そんなことしてたらよくならないじゃん」…その言葉に悪意や責めがなくとも、本人にとっては自分でも分かっていて、そうできない自分に不甲斐なさや劣意識を持っていることが多く、それを他人から言われたことで更に自分を責め追い込む。

自分が自分の心を痛めつけるので出口がなくなり、その結果、暴れだす。そういう頭の中で起きているのは、何が何だかわからなくて自暴自棄。これがパニックであり、切れてる状態。切れやすい人に対して周囲は「わがまま」「困ったちゃん」とレッテルを貼るが、「そうではいけない」と一番思っているのが、実は当の本人なのです。

切れるまでの心の状態にあったものは、どうしていいかわからず困ってしまって心がギューっと縮こまり、それを我慢して、頑張らなきゃと自分を追い込んでしまったもの。しかし結果、踏ん張っても成果は得られず、そんな瞬間に言われた他人の一言で、更に自分をいじめ見放し暴挙と化すのです。
切れてる人を目の当たりにすれば誰もが遠ざかり、更に破壊は進みます。
そこに出口はなく自分が倒れるまで続いてしまいます。

周りの安易な言動は火に油を注ぐようなもの。でも、その本人の根っこは、ひとりで困り果てた末の絶望的な虚しさです。切れちゃう人に多いのが孤独な人というのも、その心を自分が見放すまでに至った人生を考えれば、その心を非難できる人はいないでしょう。

癇癪(かんしゃく)の扱い方

怒りのページ」にもありますが改めて癇癪について書いてみました。分かっていても中々思うようにいかない自分の怒りへの対応。1番困っているのが自分なんですが、どうにも言うことを聞かないのも自分。だから困る度に何度でもキレてしまう。でもやっぱりここから抜け出すため、もう一度、何度でも書いていきます。読んでください。

癇癪とは、思い通りにいかない状況を人のせいにして怒っている様である。それは、子供の癇癪を思い浮かべれば想像がつくのではないかと思うのですが、思い通りじゃないときに「僕のせいじゃない」「ヤダー」と泣きわめく。それは親への甘えであり一種の愛情確認でもあり、まだあどけなく可愛いうちは「よしよしママが悪かった」となだめすかしてご機嫌を取れば済むように見えますが、これをいつまでも許し続けた成れの果てが、手の付けられないモンスターとなる。

それは、石ころにつまづいても俺のせいじゃねぇ、そこに石ころがあるのが悪いんだという話にわかるように、自分の思い通りじゃない全ては自分のせいじゃなく、その責任は自分にはなく、更には俺に謝れ償えとエスカレートする。ここで、過保護或いはマザコンというワードを思いつく方もいるだろう。その通りなんですが、人目には親のそれに嫌悪し人に親切で世話好きな一面を見せている人が多い。しかしその心には確かに二面性があり、本来自分のなすべき事から逃げ放棄していることは間違いない。ここが問題なのです。

逃げている、つまり自分のなすべきことをせず、出来なかったことや失敗を自分で背負わず人のせいにしてきたということは、一言で言えば出来てないまんま。その状態に直面する度に心に蓋をし強がってしまい、奥底では怯えている。時が経つほどその状態、出来ないまんまは長引きそれに対する劣等感も生まれる。しかしその言い訳には拍車がかかりそれに比例して癇癪も増え、心の奥底では苦しさも増す。結果、劣意識がある自分が出来なかった状況に直面した時、人からそれを揶揄されると思い込めばその心はキレる。

こうなると周りの人も手を付けにくくなってしまいますが、自分こそどうしたらいいのか分からず深酒や過食・薬・借金など過度の自傷行為やアディクションに陥ったりDVや事件を起こしてしまうことにもなりかねない。この原因は、癇癪への正しい対応がなされずに、安易な対処でその場をやり過ごされ肝心な癇癪する程の悔しい心に全く寄り添われていないことにある。辿れば子供の将来を無視した親の無責任な甘やかしに他ならず、虐待と何ら変わらないのですが、今更過去には戻せない。どれだけ親を恨んでも恨み続ける労力も半端ない。

このような歪んだ癇癪の弊害を正すのは容易ではありません。よくある身近の対応は、そういうあなたの側にいて、なだめたり励ましたり許したり尻拭いをしたり、そんな感じ。それがあなたを更に封じ込めてきた事を、1番知っているのではありませんか?解決への道、それは本人が癇癪に疲れ果て心の闇を自覚でき、このまんまじゃダメだなと心底思えた時でなければどうにもならないのです。

そして癇癪への扱い方、それは、甘えを許さず受け入れないこと。思い通りでない状況を人のせいにせず、すり替えや現実逃避せずに自分で何とかしようとすること。それに尽きます。小さい頃してこなかったことに真摯に取り組むのですが、そこから逃げずに堪え進むのは本人にとってこの上ない屈辱、厳しい道のりです。でも、これまで人のせいにして逃げてきた苦しさより遥かに清々しく、意味のある唯一の方法です。

癇癪の放置はキレる人間を育ててしまう。本来ならその心にある純粋な負けん気は、キレずに留まらせることで「根性」となっていく筈だったのに。やっつけの甘やかしこそが大きなモンスターを作ってしまうのですから。癇癪に振り回されて危ういバランスのなかで生きている方は多いと思います。そしてそういう自分の中に、後ろめたさや心の薄暗さがあるのは正しいです。そこから回復したければ、自分のやり方では無理だということを認めることです。そして周囲も、曖昧な、安易な手助けでは解決しないということをご承知ください。逃げたら失う、絶対に掴めない、全部が消えちゃうんですよ。

癇癪すら起こせなかった人たちとその対応

「癇癪の扱い方」では、起きた癇癪への扱いについてを載せましたが、ここでは「癇癪すら起こせなかった人」について書いていきます。そこには、似ているようで全く異なる境遇・親子関係があるのですが…読んでください。

癇癪すら起こせないということ、それは癇癪に何らかの圧力が加わり、外へ出せない状態のこと。例えば、(親の威圧や暴力など)恐ろしくてそもそも癇癪など起こせない・出せない。また癇癪起こしても放置・相手にされないなど。

これが乳児期からあったなら、恐ろしさと諦めで閉ざしてしまった心の奥底は苦しくて暴れっぱなしの状態となる。それは「癇癪さえ起こせずキレてバラバラになっている状態」とでも言いましょうか、怒っているんだけれど枯渇しています。この結果が何を意味するのかといえば、本来感じていいはずの感情を自分が捕まえることが出来ず自己表現に疎く、他人とどう接したらいいか分からない。しかも癇癪を起こしそうになる心に蓋をしている。従って思考優位となり表向きは善行・優秀・上昇を目指すようになっていきます。

しかし同時に自己否定と自己卑下は強くなり、ここが日常生活で問題となるところ。つまり自己否定が強まれば人が怖くなり、対人関係に支障をきたし対人恐怖や強迫神経症、自傷癖などの生き辛さを生みます。自尊心は低く自分に自信を持てず、自分のことは後回しというより「自分なんてどうにでもなれ」となり、それが人生を更に過酷なものとしてしまうのです。

その過酷さを改めて挙げてみますね。
・自己肯定感はなく、自分は劣位であり無価値だということが決定事項のように自分の中で固まっている。
・自分の心には疎く不誠実。従って実は困っている・助けられたいという気持ち、概念はない。
・それに引き換え他人の感情、特にイラつきや不機嫌に敏感。それを察知しようものなら心は萎縮し、その我慢(抑圧)が後になって自分にはね返り自己虐待を繰り返す。
・「消えたい」「死ねばいい」「どうにでもなれ」などの囁きがあり、成功や勝負に挑めない。
など。

これら自分のことに着手してこれなかった結末は、悔しいかな癇癪を起こし続けてきた人と似た結末となるのです。癇癪も起こせずに我慢してきた。それなのに自分の人生がままならずこんなに苦しいとは…そうですね。本来自分が手に入れるために向かうべき戦うべき、頑張るべき箇所が甘く逃げ腰となっている。

その対応・扱い方…甘く逃げ腰な自分に叱咤激励することを止めてください。先ず取り組むべきは「癇癪すら抑え込まれた心にある怒りと恐怖」に気付き寄り添うことです。「甘さ」も「逃げ」もそこが緩まなければ解決できません。ですから自分の心の中に暴れる何かを認知でき、そのコントロールに苦しんでいるのなら、ひとりで抱え込むのはやめてください。