殺意の裏側

生まれつきの殺人鬼はいない

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現在の日本でも猟奇的な犯罪事件は残念ながら起こっていますが、その根底にも怒りの抑圧が深く関わっているのは言うまでもありません。特に10代で起こしてしまう彼・彼女らの心理状態の背景には何があるのでしょうか。

ここでは特に、神戸の元少年Aや佐世保の女子高生、名古屋大生のタリウム事件などに代表されるような、残忍性と性的興奮に関連づいた心理とその背景について書いていきます。

これについて書くのは、犯罪を犯した彼らを非難したり擁護する為ではなく、自分の中に潜む殺意が、彼・彼女らのようになってしまうのではないかと恐れている方に、何らかのお役に立てることがあると思うからです。彼らは、猟奇的サディストとも呼ばれるほど恐ろしい人間のように見えますが、その殺意の基にある怒りの持つ意味を知ることで、闇雲に恐れず、どうしたらいいのかについて正しく見極めて欲しいからです。どうぞ恐れずにお読み頂きたいと思いますが、ここから先の閲覧は自己判断・自己責任でお願いします。

怒りと性衝動の誤方向

連続的な抑圧下に置かれたとき、人はそれを快へ転換しようとすることでバランスを取ります。それがアディクションのメカニズムです。例えば性に目覚めた人間が、その境遇下での寂しさや満たされない気持ちから、健全な範疇を越えた自慰や恋愛依存症となることはあります。

これはこれで依存症という課題は残ります。しかしそれらの域を越え、暴力性などによって得てしまった性の快感を止められずに残虐性を増していき、いつしか取り返しのつかない事件に発展してしまうことがあります。

しかし怒りが殺意になりそれを決行するというまでに、人間にはいくつかの兆候というか前兆があります。その時々に正しい対応があったなら、その結末は違ったものになると思うのですが、特に10代でそのエネルギーが爆発してしまうのは、本来なら責任と保護が委ねられるべき親の役割が全く機能しておらず、正しく導かれなかったのだと思いますし、その親の責任は子どもの罪以上と考えます。

また、ここに列記した条件が同じでも、それと科学反応を起こす人間(子ども)の個性により全員が同じ結末になる訳ではありません。ですが昨今、その家庭環境には、彼らのある部分を間違った方向へ向かわす要因が増えているのも確かです。個性を正しく伸ばすためにも、その家庭や社会にある要因を見直し、正していく必要はあるでしょう。

さて、彼・彼女らの心の闇とその家庭との関連について、本題に入ります。

何故こんなことが起きてしまうのか

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彼・彼女らの背景には、家庭環境下に置ける幼少期からの、持続的な①極度の抑圧(虐待)が垣間見えます。その抑圧下では日常的な支配のもと、慢性的な怯えがあります。そのなかでは発散できない怒りが意識下で増幅していき、怯えは怒りへ、そして憎しみへと変わっていきます。これは人間なら当然だろうと思う流れであり、その境遇には共感・同情されるべきものです。

また、彼・彼女らには②性に対する潔癖・憎悪があり、思春期に、正常な性欲の発散でそれらを少しでも逃がすことができません。これには家庭環境に要因があり、よほどの潔癖な親か、性虐待などの異常な抑圧をモロに受け、正常な性欲としての自慰や恋愛に移行できないことで歪みを生じさせています。

持続的な抑圧は思春期に差し掛かるころ、彼らの内部に充満する憎しみから生まれたエネルギーが、ある時ある何かを支配・屈服・抹殺することで性への快感と結びついてしまうことがあります。この初期は③空想であることも多いのですが、徐々に動物虐待へ移行するケースは多く、その歪んだ興奮はこれまでの抑圧を一気に跳ね返すほどの快感となり、またそれは、彼らの身近にいつでもあった④死への興味(恐怖)をも、一気に征服感へと解放してしまうのです。

慢性的に抑え込まれた出口のない感情が、蓄積され続けた怒りのエネルギーと共に性の方向へ噴出したとき、人間の抑止力は諸刃の剣となってしまいます。一度覚えた快感は、さらに残忍性を増しながら、その興味と欲望を実行へと向かわせてしまうのです。

また彼らのそれが現実社会で実現してしまうのにはもうひとつの側面があります。それは彼らがいつでも⑤孤独であること。そのためにその歪みを制する術もなく、着々と空想を膨らませ過激化させていき、誰かに知られるときには、人々を震撼させてしまうようなニュース報道となる場合が多いのです。

人が人でなくなるとき

それでも人として扱い、裁く

このときの彼・彼女らには人間らしい罪の意識はなく、あるのは極度な興奮でしか自分の生命を維持できないほどの人間崩壊状態。殺めてしまった相手は、既に価値のない物であり、そしてそれはそれまでの自分でもある。しかし抑圧し続けた怒りの爆発による完璧なまでに支配できた興奮と性的快楽によって、初めて無敵な自分の存在を感じられる。この自分勝手極まりない矛盾した思考がそのときの彼らだ。

狂ってるとしか言いようのない状態でしょう。それでもこれは人間が、最愛の親から見捨てられた究極の果て、存在を踏みにじられ続けた結果です。人間にとっての究極の怒りとは、自分の存在を受け入れられず馬鹿にされ、相手にされず認められないこと。それを与えられず踏みにじられ続けたとき、人(自分)は人でなくなります。

人が人でなくなるということ、それは奴隷でもなく、「物」か「神」になってしまうということです。「物」と「神」では雲泥の開きがあるようですが、とにかく人間としての感情はなく、対人間には、攻撃と快楽を味わう対象物としか見えなくなるのです。

これが物語りであったならその境遇に同情もしやすいところでしょうが、現実社会で被害者が人であることを考えたとき、その罪に同情の余地はない。そしてその罪人に対して「物」や「神」ではなく「人」として裁くことが、被害者と私たち人間の誇りであり、その罪人への最大の突きつけ、そして皮肉にも初めて人として扱われることになるのです。

心の再生はあるか

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人が人でなくなるということ、それがどういうことなのか理解できない人は、まともです。例えが適切でないのかも知れませんが、人でないということは、奴隷でもないということです。

奴隷とは、「人として扱われないくらいの尊厳を奪われた人間」であり、理不尽なまで利用されてしまうのですが、ここでの彼・彼女らは「用もない存在のないモノ」。少なくともそう思っている彼・彼女らに人間の心を取り戻すのは至難の業であり、本人の力より周囲の無二の愛が必要でしょう。

もしも罪を犯してしまった人間が、自分も人であったと自覚できたなら、ようやく自分の心の闇と向き合う鍵を手にできます。その鍵で自分の心の扉を開け、自分の闇と真摯に向き合い、その意味を理解し解放できたとき、心は再生されるでしょう。

これには相当の時間が必要であり、しかるべきサポーターとナビゲーターが必要です。また、自分のしたことの全ての意味を正確に知れたとき、そこから初めて償いの気持ちは生まれるでしょう。

どちらにしても、それには途方もない時間が必要であり、しかしながらそれが彼らの生きる意味であり、謝罪なのだと私は思います。

先だって、元少年Aの手記が出版されました。彼の更生の有無がどうあれ、手記を出版した理由から分かるように、そして出版後の反響からも見て取れるように、社会は未だ彼を受け入れてはいません。それは私たち世間が主観として彼を身近に感じたとき、事件当時に引き戻され、恐れが蘇るからです。残念ながらこれが人間の真実であり社会の姿です。

社会は非情です。罪を犯したあなたがたは、この社会に受け入れられることを願うのではなく、あなたがひとりの人として、あなたの身近にいる人たちから逃げずに、一歩一歩、人間同士の関係を構築していくことです。あなたの相手にするのは社会ではなく、目の前にいる人間でありあなた自身なのですから。