不安

不安の正体

不安のイメージ

不安とはわからないこと、正体が見えないこと、未来に絶対はないこと。それらを恐れる心のことです。不安とは人間が「死」を意識し理解したときに生んだ産物であり、死を逃れる術がないことからも分かるように、不安の完全消滅は果たせません。

もし不安が最悪を想定したとき、その怖さに埋め尽くされそれを回避できなければ、そこから抜け出せない無間地獄となる。

わからないということが恐怖を呼び起こし、その渦に呑まれ、どうしよう、どうしよう…となり、本能的な防衛反応が過剰放出され、神経にダメージをあたえる。すごく疲弊してヘトヘトになる。この症状が神経症。

早くひとりになりたい、早く終わらないかと、そのことだけを考える状態では、まともな会話・仕事はできないですよね。これ、安心のある人の心には、不安も容認できるスペースがある。 不安になっても、それで埋め尽くされることはありません。

その違いはなんだろう?

ここでは私たち人間が持つ不安について書いています。不安をどう理解しながらどう付き合っていったらいいのか、あなたのこととしてご参考にされてください。

~だったらどうしようという不安

「~だったらどうしよう」という不安は、~だったら嫌だなあという未来不安なのですが、そう感じた時点で最悪をイメージし、その恐怖にのまれてしまうと、安心感は跡形もなく失われていきます。したがって成功からは遠ざかり、「~だったらどうしよう」と思っている通りになってしまい易いです。

こういう不安のある方の多くは、いつでもこの不安と共にいます。つまり、あたかもお守りのように不安を側に置きながら、それを回避し窮地に陥らないために自分を律しています。不安を押さえ、克服しようとしています。

しかし不安を払拭し恐怖を克服しようとすればするほど、自分は不安だ、自分は怖いという事実から逃げてしまうのです。

自分から逃げないということは、そうなってしまっても、自分はその事態・その事実を受け入れる、そういう覚悟をすること。それが責任ある一人の人間として生きていく唯一の方法なのですが、ここで取り上げている「不安」がこれを阻止してしまいます。

ミスするのが怖い → ミスしないようにしたい → ミスしないためには、、という思考回路ではなく、
ミスするのが怖いが、ミスしたらそれは自分の責任で、その事実を受け止める。大事なのは、失敗するか成功するかではなく、自分の成すことがどういう結果になろうと、そのことに『自分がやりました』と言い切れること。

しかしこれが難しいのは「不安」と「恐怖」がごちゃ混ぜになってしまうからです。

漠然とした不安

漠然とした不安がある人の多くは、自分が何者かに苦しみ、生きる意味を見い出せずにおられます。漠然とした憂鬱、抑鬱、焦燥感など、こういった全ての不安が、自分というものに価値を見い出せないことから生まれたものであり、それら全てを「不安」という言葉で片付けてしまうほど単純なものではありません。

生きる意味、自分の価値、そういうものに直結する不安とは、裏を返せば「死」をも意味するものであるのですが、これは明らかに異常なことであり、健全に育った人からすれば皆目理解できないこと。でもそれを煩(わずら)う人にとってはその不安を何とかすることが最大の関心事であり、その考えは正しいです。ただ、その解決の方向は、自分を律することではありません。

これら底知れない不安をどうしていったらいいのか。順を追って書いていきます。

不安の背景にあるもの

不安のイメージ不安になると困るのは、上記のように不安が不安で治まらず、そこが入り口となって最悪を想定し、それを回避しようとして対人恐怖、また人に依存したりというような行動を取ってしまうことにあります。その不安の背景にあるものについて先ずはもう一度取り上げてみますね。

無価値感

無価値感とは自分のことをまるで価値のない人間だと感じること。または自分に、人としての価値をまったく見い出せないでいることです。不安でいることが常となっている人にとって、この無価値感は、ごく当たり前な感覚として染み付いています。

この、「自分には価値がないんじゃないか」という恐怖が深く染み付いていると、人間の価値と人依存の記事にもあるように、それを撤回したくて自分の価値を見い出したくて、先ずはそれを上げるために勉強やスポーツで秀でようと頑張り、学歴やキャリアを高め、資格取得に励もうとするでしょう。

でもそれがなかなか報われないとき、自分の性格改善を図る。明るく元気に振る舞い、人を気遣い優先し、信頼される人を目指す。自分の全ての言動を、他人から価値ある人間だと認められようとすることに費やすようになります。それは自分の個性や性分・癖を消し、従い尽くすことで、自分の存在が必要だと相手から認められようと終始することです。

しかし、相手に必要とされることに成功しても、相手からしたら、従ってくれるのがあなた、尽くしてくれるのがあなただと受け入れられるので、その関係から外れることができず、さらに苦しい状況に陥ってしまいます。

自分の個性や性分・癖を消すということは、自分そのものを消すということであり、そういう自分が必要とされても、ありのままの自分が認められた実感はなく、更なる自己嫌悪のループにはまり込むことになります。これでは、自分を認められたいのに自分を隠すという、いかにも本末転倒な事態を招いてしまいます。

ありのままの自分を認めて欲しいのに、認められる自分を目指し、しまいには自分を無価値な存在として認識してしまうのです。この真逆な発想は、ありのままの自分を自分が肯定できないことから起きているのですが、どうしても否定せざるを得ない事情があるのです。

それは、自分のありのままの表現、素の反応を、相手に非難されたり嫌われたり、弾かれ見放されてしまうんじゃないか。そのまんまの自分でいたら相手にされずひとりぼっちになってしまうんじゃないか。そういう計り知れない不安と恐怖から逃れるため、本当にひとりぼっちにならないために自分のありのままの姿を消すのです。

底のない孤立・孤独から逃れるための施策、これが無価値の正体であり、その苦しみは、善悪で縛り優劣で競う出口のない迷路を彷徨ってしまうことにあります。

見捨てられ不安と承認欲求

自分に価値を見い出せずにいる方には、人から見捨てられることへの強い不安があります。見捨てられ不安の強い人は、見捨てられないように一生懸命相手の言うことを聞こうとしてしまいます。

カウンセリングの現場でも、極度に強い見捨てられ不安の持ち主は多いのですが、見捨てられ不安があればあるほど、自分を生殺しにしているということを知る必要があります。

見捨てられ不安の基になるものは、殆どが親から興味・関心を持たれなかった後遺症なのですが、以後の人生では見捨てられることを怖がり、見捨てられないように迎合し、相手に癒着していくことが当たり前となって行きます。

これは、満たされない自分への興味・関心、そして憧れの寵愛を欲するゆえの当然の流れではありますが、その一方で、見捨てられたと感じたときには自暴自棄となり、自分或いは他へ、もの凄い怒りをぶつけたり手段を選ばず攻撃することもあります。

この背景には、親に見捨てられたことを認められなかったり、その怒りが未昇華であったりするので、どうしても過去の自分の反応が出てしまうのですが、その見捨てられ経験者が、「見捨てられること」と「断られること」の区別がつかずごちゃ混ぜになってしまうことにあります。

例えば、親切心から相手の話を聞いてくださる人でも、それが度重なるにつれ、

「もう…まいったな」
「おもい…」 と、なる。

これ、もの凄く当たり前のこと。しかし、『断られる=見捨てられる』と感じる人にとってはこれがまさに死を意味する。

断るということ、それは、

「もう私はあなたの話を聴きたくありません。」
「あなたの話に、私はどうしてあげることもできません。」

という、聞き手の意思であり

「あなたがどうなっても構わない」

という結果ではないのですが、また一人ぼっちになってしまう危機感は時に逸脱した怒りとなって、ストーカーまがいや嫌がらせ行為に及ぶこともあります。

そうして結局のところその関係は破綻することが多く、そのパターンを繰り返しやすい。

じゃあいったいどうすればいいのか…

払拭できない不安の根本原因

落ち着いて考えてみればそこまで不安になる必要のない不安、その不安につきまとわれ、それを払拭できない人とは…

それは不安に対する耐性が低いからではなく、その不安を克服できないからでもありません。その不安を容認できるスペックがその人の心の中にないからです。

しかし初めからそのスペックがある人はいません。その違いとは、不安になった時、その不安を口に出せ、それを聞いてくれる人の存在があったかどうか。その不安な気持ちについて、そっと見守られた経験が積まれたかどうかです。

その経験があってこそ感じる不安をどう扱ったらいいかを学べ、それを自分の力でも扱えるようになっていかれるのです。

それがない人にとって、不安はただ膨らむばかりです。それがどれ程大変で、その払拭・克服に追われる毎日は、人には分からないどんなによくてもゼロの日々。たった一人で生きてきたような孤独な毎日です。

不安のあつかい方

不安のイメージさて、1人で不安と向き合うなかで、強すぎる不安を緩和させたくて、させようとして、色んな理屈や理論を考えて自分に言い聞かせ、それがはまって落ち着けるときはいい。でも長続きしない。

その理屈や理論も間違ってるんじゃないか?最悪が現実になったらどうしよう…と、恐怖を生む。

ではどうすればいいのか。

正しさが問題ではない

人は不安になると、正しい方向を模索し始めるでしょう。子どもを例に取るとわかりやすいです。親が不安になったら、子どもを正しい方向へ導こうとするでしょう?すると子どもはたちまちおかしくなる。あなたが子どもの頃も、そうだったのではないですか?

でもそれは無意味です。

大事なのは、自分がどうしたいのか、それが認められることだけ。不安を解消しようとしたくて、良い方向へ引っ張っても、ありのままを認めずして、善行を促がしても、自分が認められず納得できなければ、不安の解決にはなりません。

優劣があればあるほど不安になる。不安を煽られる。だから不安なときこそ正しさを探さない、正解を目指さないこと。自分とのギャップがその不安を生んでいるのですから、不安の連鎖を断ち切るためには、もう頑張らないこと。

不安をいじらない

その不安、それは、あなた自身です。きちんと 守られ育てられなかったあなたです。
当時のあなたはどうされたかったのでしょうね?

おそらく、そっと見守られ、守られたかったのではないですか?

あなたの不安が逸脱(いつだつ)したのは、その不安をいじったことにあります。すると不安は、目の前にある仕事などのなすべきことに集中できず、さらに不安を引き起こす。その悪循環がパニックとなり恐怖を生んでしまうのです。

だから今、あなたがそれを辞め、不安はいじらずただ不安のまま、そっとそばにいることです。あなたが親からして欲しかったように、そっと見守ることです。それができるようになれば、怖さに到達することはなくなります。

不安が襲い恐怖が襲いパニックとなってしまったときは、それが過ぎ去るのを待つほかありません。もしも不安をいじってしまったら悔やまなくていい。そして仕切りなおす。

不安を無視するのではなく、不安は不安のまま側にいる。
基本はこれです。

まとめ

不安感の強い人々は、その不安に飲み込まれているのですが、どこかそれは、その不安を頼りに自分を律しているようでもある。安心したいが為の防衛反応として、「不安でなきゃ不安」のようにそれを察知し、それを回避しようと一生懸命。

不安が怖いのは、不安を察知した瞬間に最悪を想定してしまうことです。その最悪が恐怖を生むことで、「ただの不安」から「現実の恐怖」となってしまうことにあります。つまり、不安とは「恐れている心」であるのに、それが「恐れている現実」にすりかえられてしまうのです。

現実と言ったって、その恐れこそが妄想だったりするのに、想定した最悪が怖すぎると、そこから動けなくなり、結果怖いまんまになってしまうのです。それはまるで自分の影(太陽の下で映るあの影)に気づいてしまった人が、影に怯え、逃げられない影の下で脅えているようではないですか。

不安の完全消滅はない、ですが強すぎる不安には必ず理由があります。不安から逃げずに正しく理解し、あなたの中の大切な慎重論者として受け入れてください。