AC アダルトチルドレン(こころの図書館)

※こちらも参考にしてください:AC アダルトチルドレン(コンテンツ)

親から興味・関心を持たれなかった子供

親から興味・関心を持たれなかった子供は、自分の気持ち・感情に対しても興味と関心を持つことを放棄する。寂しいとか、悲しいとか、嫌だとか、悔しいとか…たいがいは不満とかが多いけれど、次第に喜怒哀楽全般に及んでいく。だって、持ってたら、感じていたら、やってられないもんね…。それは相当早いうちに出来上がると推測。おそらく生後2歳にはできあがる。そしてその後は、たったひとりでやっていくことになる。その、「ひとりで」とは、ひたすら心を閉ざし、なるべくトラブルに巻き込まれないように、人と関わりを持たずに過ごすだけ。

自分が生きてていいという基盤がないので、ひとりでも学んだり覚えたり試みたりする主体性はなく、だから、なんにも知らず、なんにも解らないまんま。何ひとつ身につかず、頭の中はいっつもパニック。自分の心に鍵かけて、その鍵壊して捨てちゃったようなものだから、自分の気持ちが分からない。人間関係は怖くて、人とスムーズに関われない。そうなると、やっぱり1人がいい…ってなってしまう。

だからといってそれで済まないのが人間の性(さが)。どこかに隠れている、どうしようもなく人恋しく必要とされたい自分が、自分の人間としての価値を捜し求める。結局、枯渇した自分を埋める欲求に沿い、怖いながも他人の隙間に近づいてしまう。これが癒着の始まりであり、こうして人依存がつくられる。この状態、世間一般からは、甘えてるとか弱いとか、我がままと見られる。

…でも、本質は違うんです。主体性とか主観がなく、一体それをどうしたら持てるのかが分からないのですから。

ヘビに睨まれたカエル

親から興味・関心を持たれてない子供。 その子供がその家族の中に居場所を見出すにはどうすればいい?

例えます… それまではどちらかというと大人しい子が、 楽しい高校生活を送りたいと意気込んで 高校へ入学しました。 さっそく、 ちょっとイキガッテる子と出会い 今までにない楽しい毎日が始まりました。 初めは楽しく過ごせそうだったのですが… …次第に友人の言動に息を呑み、 躊躇するようになっていきました。

…からかい、イジメ、恐喝… しかし やらなければ。自分がやる側の 仲間でいるうちは大丈夫… その子には それ以外の選択肢はありませんでした。 違和感を感じそうになる自分に目をつぶり、 そのグループに迎合し、 手下というより、一味として 一人前に振舞えるようになっていきました。 仲良く肩を組み 同じように振舞うことで 深い絆があると思い込み 一生懸命に頑張るのでした。 しかし 報われない。 楽しめない。 どこか虚しい。

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…これが親から興味・関心を持たれなかった子供が 自分の価値を生み出し 自分の居場所を確保できる 唯一の方法です。 逆らう勇気? 歯向かう勇気? 殺される覚悟? そんなもん、ある訳はないよ。 ヘビに睨まれたカエルのように、 到底勝てない相手には、 ヘビのフリするしかないんだ。 自分をヘビだと思って頑張るしかなかったよ。 自分を責めなくていいし、親を責めた所で解決もない。 ただ、 ヘビだと思い込んでいた自分が カエルであることに気付き カエルとして自覚した生き方を取り戻すこと。

でも、 それまでの生き方も、 カエルとしてヘビの家に生まれた者の そうでしかありえない生き様だよ。

子供に興味・関心を持てなかった親たちへ

親に興味・関心を持たれなかった子供はね、普通は当たり前に持っている、「自分でいていいという安心感」がなく、だからいつでもどこでも、相手からの評価が気になってしまい、おびえ続けるんだ。自分に価値があると思えずに、苦悩し続けてしまうんだよ。でもだからと言って、関心を持てなかった親から謝罪されたい訳じゃない。ただ、「本当にそうだった」と認めてほしいんだよ。

そうして初めてその境遇の中で自分が生きてきたということが確かな事実として受け入れられる。自分の感じていたこと、やっぱりオレに興味なかったんだってことが正しかったと思えるんだよ。それでようやく親をちゃんと憎め、恨める。そしてそれが済んだら、ようやく、自分の存在を大事にしようと思え始めるんです。

でも実際、それだけで解決できる問題じゃない。今までやってこなかった、放棄してきた全てを、自分の問題として受け入れ初めから取り組む必要がある。これ、当然ながら楽じゃない。長い道のりなんですよ。そしてあなたも、あなたにとっての幸せを見つめなおさないとね。

感謝の気持ちがわからない…食を通して

「感謝の気持ちが解らない」とNちゃんは言う。 例えばご飯をご馳走になった時、「ありがとう」が言えない。 ありがとうの気持ちがないから言えない。ご飯を食べたときの感謝とは、シンプルに言えば「これ、美味しい!」と口に出ること。感じれること。 思ってもいないのに言う人もいるけれど。(それも礼儀のひとつでもあるけれど。) しかしNちゃんの問題は、食べることに対してメンタル的な満足感が全くないことにある。

「食」に対して、無防備に心から感じる自由がない。 いつから拒否したのか、食べること自体が窮屈で、感謝の気持ちなど出ようがないのだ。 これ、お客さんの中で非常に多いのですが、本人達にはあまり自覚が無い。 例えば…小さい頃から栄養重視で好き嫌いが許されず、 決められた物を決められた量、時間内に食べるのを強いられた、そう昔の学校給食のようにね。

食卓時の会話が親の愚痴や説教ばかりで、団欒を味わう隙がなくなるばかりか、食事に興味がなくなった…。それでは 例え美味しいものでも、美味しく味わう気持ちなど覚めてしまう。楽しむどころか苦痛そのものでしかなくなる。

食を味わうには、先ずメンタルが開かれていないと無理なのです。 ほら、やっつけで作られた料理が美味しく感じない経験がおありの方、いるでしょう。 食べれるだけマシ、と叱られるかもしれませんね。でも、生きるために食べてきた経験のある方こそ、その食事は生きるための「クスリ」であり「エサ」だったのではないでしょうか。

食を味わうということ、そこには必ずメンタル的な要素が絡んできます。それは赤ちゃんの頃から、人間が最初に満たされるべき欲求。 そこに満足感がない人にとって、人との関わりのおそらく多くの場面で、「感謝の気持ち」など、湧きようがないのは無理もないことだと思いますね。

被害者と認識できない人々

被害者意識についての記事を書いたことがありますが、お客さんたちと話していると、ご自身のされたことに対する被害者としての自覚のない方が多々いらっしゃることに驚かされます。被害者意識というのは、自分が被害者だと思いたい意識のことを指し、その認識は主観です。が、事実、被害者であるという認識は、自分がされたことに対する客観的な眼があることが必要なのですが、所謂それがないのです。

つまりそれは、自分は人からそうされるべき存在またはそうされて仕方のない身分であると、受け入れてしまっているということです。どうしてかという一番簡単な認識は、「初めからそうだったから」ということ。極端に言えば、そもそも生まれた時から自分は必要なかった。そもそも相手にされなかった。そもそも否定されバカにされ続けた、ということ。それを虐待と呼ぶのですが、当事者にそれは分からないのです。

家庭から、世間や社会にでたところで、人と違う自分のポジションに何となくなんでだろう…と思うことはあれど、それも「自分だから(自分が悪い)」と思うだけなのです。まあ、そもそもは被害者でも、後天的に被害者意識を持ったり、加害者になったりすることはありますが、もしあなたが、対人関係においての楽しさ喜びなどなく、辛さ苦しさを感じ続けているのなら、一度立ち止まってみましょう。

どんなによくてもゼロの日々

親から興味・関心を持たれなかった子供は、 その穴を埋めるため 頑張る。 自分の空虚を埋めるため、 自分の価値を感じるため、 自分の居場所を確保するために 一生懸命に頑張る。 何を頑張るのかと言うと、 自分を謙(へりくだ)らせることで 相手をいい気分にさせる。 相手に尽くすことで 必要とされる。 おどけて見せることで その場を維持する。

そんな毎日 そんな日々に 満足は無い。 あるのはただ 不安な毎日。 焦りと緊張の中、 やりすごすことだけ。 よくてゼロ。 最高でもゼロ。 その穴を埋めるだけの日々… その毎日に安堵などない。

自分に安心感のある人は、 その毎日がゼロからのスタート。 たまの凹みはあれど、 埋めるためではなく 増やすための日常である。 この違いがどれ程のものか、 おわかりだろうか。

こころの孤児

夫は「こころの孤児」です。 ずっと話していて、この言葉に行き着いた。 何不自由のない裕福な家庭に生まれ育ちながら、孤児とはなんたるこった。 しかしながら彼を物語るとき、どうやらこの言葉がしっくりとくる。 だからといって、親が悪いとか被害者ぶりたいのではなく、 誰にも自分の心を悟られず、見破られず、それが自分の本意であったにせよ いっつも一人ぼっちであったことには違いない。

孤児という視点からすれば、甘えるだとか頼るだとか、望むだとかは、ない。 そうして生きてきた。 それが普通だった。 だから、人と接するとか関わるとか、交わるなんて怖くてしかたない。 ほんとは人恋しくて仕方なくても、孤児だから、スネて放棄するしかなかった。 そしてそういう、人恋しいなどという自覚もなかった。 なんか可哀想な美談に聞こえてしまうが、いえいえ、 ただただ状況と個性のマッチング、ケミストリーに過ぎない。

しかしそれを理解し、受け入れていくのには時間が必要だ。 でも大丈夫、今は孤児ではないのだからね。 うちのお客さんには、同じような孤児が多い。 そして私は、本気でその子らを育てようとしている。 今の世の中、こういった心の孤児は非常に多い。 でもそのほとんどの人が、自分が孤児だという自覚はない。

こころの孤児の親

こころの孤児たちの親もまた、こころの孤児の場合が多い。 では何故、自分の子供をもまた孤児にしてしまうのか。 それはこういうことです。 こころが孤児のままの人が親になったら、その親はこころが孤児である故に 親という、つまりその子の保護者として、その子に興味・関心を抱くことができない。 正確に言えば、どう接したらいいか、その接し方がわからない。

こころが孤児の親は、自分が家族を持ち子供を持つことで、 こころが孤児である自分のこころを埋めようとする。いえ、埋めてもらおうとする。 勿論、無自覚なまま。 子供こそ自分の分身であり、一番身近な存在である故にそうしてしまう。 だって、こころが飢餓、こころが枯渇しているもの、 いつだって本当は誰かに満たされたいと思っているもの。

そしてそういう中で育った子供、特に感受性の強い子ほど、 親から自分には何の関心も向けられていない、何の興味も抱かれていないと知り 自分もこころの孤児となるのだが、 本人にはそういう自覚もないまま、 親に対しては、自分がこころの保護者の役割を買ってでる。 因果なものですね。

こころの孤児からの脱却とは

こころの孤児からの脱却は並大抵のことではない。 なぜなら、先ずは自分にそういう自覚がなく、 だからこそ自分に何が起きているのかがまったくわからないことで、 ただ漠然と苦しく虚しい日々が続いてしまうからです。

これは、AC(アダルト・チャイルド)の自認と似ていますが、 それよりシンプルでわかりやすいと思うのは、 自分がこころの孤児であると自覚するという時点で、 親から脱却するという話ではなく、ただ「自分」にだけ視点を持てること。 勿論、親や家族のこと、その関わりについての対話はあるが、 多くの人が無自覚ゆえに掴めていない、寂しさや甘えについての会話がしやすくなる。

こころの孤児たちの一番の特徴は、人間関係において恐怖感を抱いていること。 それによって当然あるべき関係を営めずに、これまた無自覚にも 孤独のままそこから抜け出せずにいる。 グループや団体や人の家族に対して、壁の外からもの凄く嫌悪してしまうのも頷ける。 だって自分には無縁な、まったく知らない世界なのだから。

夫の例を持ち出せば、自分がこころの孤児だという自覚を持てたとき、 はじめて、ある人に対して、「もし、この人が自分の親父だったら」という視点で 観察することができ、それまで恐怖していたその人に対して、 はじめて違った見かた、自分の気持ちの揺れを感じることができた。 怖いという感覚以外の、何か自分の奥で感じられた心の揺れ、 それが自分を知っていく入り口になる。

怒り

生きてやるもんか
幸せになってたまるもんか
だってそれが望みでしょ

産まれて間もない僕が
生物学的には父という人から受け取ったメッセージ
お前という存在は邪魔だというメッセージ
ほんとうに、実際に僕が死んでも別に構わない、結構大丈夫
というあなたからの手応え
しっかり届いているよ

僕はそれを根に持っている
だから生きてやるもんか、幸せになってたまるもんか
という怒りの気持ちが
僕の人生で一番強く根底にあって消えない

伝わらないのはわかっている
そういう父だとわかっている
今さら父に期待などしていない
だけど許せるのは僕しかいない
そんな父でごめんね、どうか許してあげてと
僕が誰かを許す側なんだね
そのことがまず驚きだよ

そして本当に許したいのは父じゃない
僕を見捨てた僕自身
僕を見捨ててごめんね
僕をいじめてごめんね
僕を殺してごめんね

そうやって僕は自分を見捨てず残りの人生を歩んで行きたい

たつろう