円満解決の履き違え

世の中、まだまだ平和主義というか、円満解決ありきな気がします。 人の顔色伺いながら、議論を好まず、自分の意見を言いたがらない人、 多いですね。 ・・・安易すぎる、それは円満の履き違え。 黙っていたほうが楽なのかな? でもさあ、ひとたび利害関係が生じたり被害を蒙ったりしたら、 黙ってないんじゃないですかねぇ・・・ 自分さえ我慢すれば なんて言い訳だよ。保身、保身・・ そんなの円満じゃないって。

自分は~思う と意見を言えた上で、みんなの意見を出し合い 確認した上でなければ、話し合いにはならないし、 その上でみんなが納得しなければ解決できない。 それは、同じ意見を強要することではなく、違いを認め合い尊重しあい、 その延長で折り合いがつくこと。 みんなが無理に同意することではなく、 それぞれの意見を表面化し、それぞれが納得すること。

だから、どうしても纏(まと)まれないとき、意見を曲げたくない人が自ら放棄したとしても、 それは円満な納得なのです。 安易に賛成して、円満な素振りでその場を凌いでも、変わらない。 結局、本気で纏まろうなどと思ってないんだろうな。

誤魔化し・すり替えの矛盾

誤魔化した会話の多さに反応し、どうして誤魔化すのか尋ねると、怒られるか、問題をすり替えられます。子供のため?生徒のため?社会のため?皆のため?・・・ いえいえ、自分の為だといえばいいだけなのに・・・

結構すり替えてもバレているのにね。自分が恥ずかしいから、自分が困るから、自分の責任になりたくないから・・・ だから私のためにこうして下さいと言えばいいのに。他人の評価や見られる自分が気になる人は誤魔化す傾向が多いようです。

反対に、自分に正直な人、自分に忠実な人は誤魔化しが少ないようです。つまり、言い訳が必要ないのですり替えも起こってきません。自分の正直な気持ちにOKが出てくると、正直な気持ちを判断しなくなると、矛盾した言動を選ばなくなっていくようです。

子供達は大人の誤魔化しに気づいています。そこにある力に怯えています。誤魔化さなければならないのはあなた自身の問題です。力で押さえつけないで下さい。

同じ土俵に立つことの意味

子供が教師に対する不満や疑問を話すようなとき、 どれほどの親が、きちんとその子の話を聞いているだろうか? 多くの親は、教師に逆らうことを抑えたり、我慢や気にしないことを薦めたりする。 世の中はそんなもんだと否めてしまう。 お前のためだからとねじれた理屈で子供の気持ちを抑えつけようとする。

その子が、何にどう感じどう考えているか、何に納得できずどこに疑問を持っているか、 その子の土俵で真剣に話を聞ける親がどれほどいるだろうか? 全く違う土俵からただ押さえつけるだけでは、対話になどなるもんか。

明らかに話の土俵が違っている。心の対話をしているのに頭で会話をしたがる。 そんなんじゃコミュニケーションなどできませんね。 対話をしたければ同じ土俵に立つことです。

土俵が違っていては噛み合わないしすれ違う。 ただ、「自分はこう感じこう思う」という会話をすればいいだけのこと。 すると殆どの人は、自分の言葉で表現し始め、しゃべり場が始まれる。 そこに批判や評価など、無用な道具。

対等な会話

本当の意味で、話し合いができてる人たちがどれほどいるだろう。 人の意見にきちんと向き合い、批判ではなく自己発言できる、 対等な話し合いができる人たちがどれほどいるのだろう。

話し合いのテーブルに着くということは、同じテーブル、つ まり同じ土俵の上にみんなが立つということが前提。 その前提がなければ、対等に話をし合う関係などできはしない。 ある程度、リーダー次第ってとこもあるが、意見の自由と尊重が保たれず、 馴れ合い、押し付けがまだまだある。 質問や意見を言うと、はぐらかされたり丸め込まれたり、時には逆ギレされたり。 通じないばかりか、こちらが悪いと言いたげに、正論や前例を持ち出す。 そんなんばっかりだ。

話し合いにならないと仕方なく、こちらが席を立とうとすれば、 我侭だの非協力的だの、訳の解らない事を言ってくる。 うんざりだ。 う~ん、損得が絡めば、誰もが躍起になって食い下がるんでしょうが、特に自治会や ボランティアなどの責任の所在がはっきりしない所は、曖昧な協調がまかり通る。 要するに、「みんな仲良く」の履き違え。

しかし、この世の中、まだまだ威圧的な人が牛耳ったり、権力を笠に 理不尽を押し通す輩は多い。 なので、そういう輩を相手にするのが怖いと感じて従ってしまう方々は、 口に出せなくても、出来るだけでいいので、 「おかしいものはおかしい」と感じることだけは辞めないで下さい。そう感じられる自分を肯定し始めること、それが、自己表現の一歩です。

会話にけりがつくということ

マザーアースのカウンセリングでは、込み入った夫婦や親子などの話し合いに、ファシリテーターとして参加することがありますが、近年、学校内における話し合いに同行することが増えています。いじめの話し合いだったり、不登校の親子と先生との話し合いだったり、問題を起こした生徒の付き添いだったり、、とにかく学校との話し合いの席に同行を依頼されることがあります。

最終目的は、ズバリ「自分の納得」です。自分たちだけではどうしても言いたいことの半分も言えず、それでは伝わらず消化不良。またその場では、相手や学校の言い分に対する考えや気持ちも、パニくって頭が真っ白になり答えられないし、反論できない。私の役目は、双方のそれを通訳したり、客観的な見方や意見を言うことで、話し合いをより具体的かつ本質的に近づける。そうすることによって、本来あるべきコミュニケーションができ、ようやく本心が垣間見れるということ。

それは時には、激高した会話や感情的な場面を生むことはあるけれど、論点や筋を外さずに正直に発言することを促がせれば、たいがい結末は見えてくる。結末とは、円満や勝った負けたではなく、けりをつけることが出来るのです。

「けりがつく」ということ。それはどんな形にせよ、行き着くところまで行き自分の目で確かめることが出来るということです。例えば、恋愛に当てはめれば、相手の気持ちを確認することで破綻か成就かが分かるということ。それによって落胆か喜びか、そのあと、そのどちらかを心置きなく味わい切る他なし。それができて、ようやく次に進めるのです。

無責任な会話

例えば、何食べたい?と聞かれて、何でもいいと答えたら、中華になろうと 和食になろうと、文句が出るのはおかしいのです。 だけど、それが少ししょっぱいとか、辛いとか、勿論、美味しいねとか、 食べて感じた事を言うのは構わないのですよ。

何か食べる?と聞かれ、何も食べたくないと答えているのに、 じゃあケーキなら食べれるでしょ、はおかしいのです。 フルーツなら入るでしょ、は人の話を聞いていないのです。 誕生日何欲しい?と聞かれ、何でもいいと言うから時計をあげたら、 それはいらないと言うのは、相手に失礼なのですよ。 会議の中で、意見のある人は言ってください、と言われたので発言したら、 何でそんなことを言う、と怒るのはおかしいのです。

わかります? 自分の言っている言葉に責任を持てているか、人の発言をきちんと聞いているか、 ズレている自分を棚上げし、相手に押し付けたり責めたり、傷つけていないか。

世間を見渡すと、殆どがその類でしょう。 筋の通った、道理の通った会話は、少ない。 自分のことしか考えない、自己中な人には、ホントご用心。

言葉の意味と受け取り方

言葉というのは、使う人もそうだけど、受け取る人によって意味が違ってくる。 私が、「ど~でもいい」と言うと、怖い とか冷たい とか思われることもあるのですが、 心からどちらでもいいと思うことを言ったまで、そこに他意はない。 善悪や優劣に関しても、私はかなりない方だと思うので、シンプルに 「い~んじゃないの」とか「あらそう」とか言うと、これまた引っかかる人もいるらしい。

話していくと、「あれ、ホントにそう思ってたんだ」と言われるけど、いくら正直に 使っていても、なんか誤解を解くのに時間がかかる。 ね、人の言葉なんて、どう言おうが、どう使おうが、お互いの思いで いくらでもズレていく。 でも、そのズレが嫌な私は、かなり、双方の意味の確認に拘っています。 例えば、「ぼち、ぼち」「まあ、まあ」「さっぱり」みたいな返事をされたときは、 「ぼち、ぼちってどれくらいなの?」とか 「さっぱりって、ゼロ?」とか聞き返す。 きちんと解りたいから聞くのであって、ズレたくないからであって、 突っ込みたいわけでも、絡みたいわけでもない。 これ、世間では鬱陶しがられる。

ほら、「ぼち、ぼち」と控え目に言うことって、美徳、奥ゆかしい、という場合が 多いじゃありませんか。 でも私だって、もし相手が‘聞かないでオーラ’を出していれば、当然解りますし、 それでも聞こうとする訳じゃない。 話が噛み合わないのがイヤなんです。

言葉と意味の使い方って、結構自分勝手なんですよね。 単語など、例えば、「自由」「責任」「優しさ」「素直」「普通」「コンプレックス」 「愛」・・・それらに善悪・優劣意識が加わって、ズレまくる。 意味のはき違えが起きてしまう。

人間は言葉を使いますが、そこに乗っかる気持ちというのか意図というのか、 それらが空気や雰囲気で相手を如何様にも操作する。 また、自分を表現するのに言葉を使っているつもりでも、 言葉に自分を当てはめて、言葉が一人歩きし、言葉に使われ惑わされてしまう。

例えば、ACという言葉。似たような気持ちや状態を集め、まとめ、ACという 概念のカテゴリーを作ったら解り易くなった。 しかし、自分=AC になり、ACだから○○、ACだから△△と、実際の自分から 離れて学習してしまう。その言葉からの脱却を目指してしまう。 これでは本末転倒だ。 言葉は便利ですが、厄介です。 流暢(りゅうちょう)に理路整然とまくしたてられると、そうなんだ~と勘違いしてしまう。 有名人や権力者の使い方が正しいと思い込んでしまう。 自分の受け取り方もあるけれど、言葉の意味にご注意下さい。 言葉主体ではなく、自分主体に当てはめてお使い下さい。