親子もひとつの出会いに過ぎない
親子もひとつの出会いに過ぎない。 ただ、これが最初の出会いであるということと、自分の全部を知られ解られているので、その関係が唯一の深く揺るぎないものだという勘違いを生む。 DNAは近くても、微妙に違うそれは、全く違うに等しい。家族は運命を共にするチームではない。 生まれたときから、子は親から自由な身となり、親は子が巣立てるまでの援助者、協力者に過ぎない。
親は子が生まれたときから、縁のある他人となれ。 だから親と子が癒着し合ってはいけない。子は親の所有物ではないのだから。 互いに、別人格者として、尊重し、助け、助けられながら生きることだ。それが出来なければ、それが出来るまでは、この世に生まれてよかった!という実感は味わえないだろう。
親であるあなた。 人生に対してしあわせ感、楽しさを抱けていないとするなら、それは先ず、あなたがそれを手に入れることが専決。 しあわせを感じている親の子は、自ずとしあわせが何たるかを手にしている。 子供を育てようとする前に、自分のしあわせ感を掴むことだよ。
親のなすべきこと…子供への責任
親のなすべきこと。 それは、扶養や教育を施したり、子供の言動を律したり肩代わりすることではなく 『子供の自由をどこまでも守ること』 それに尽きる。自由を守るとは、子供のいかなる選択と決断をも、奪わず尊重するということ。 小難しいことではなくて、『手や口を出さずに見ていろ!』ということです。
責任とは、自分の自由な言動の経緯を、自分の言葉で明らかにし、それが自分の意思であることを認めること。 だから責任は、本来自分でしか取れない。 自分の意思を語るのには、「自分」を出さないとならないからね。 そして、経緯にしたって、合理性のある理由ばかりではなく、やってみたかった なんとなく 試してみたい ・・など、体験そのものが目的のことも多く、「自分の勝手」を持ち出さないと説明できないことも多い。
そういう自分の気持ちに従えることが自由であり、それを自分で説明することこそが自分の責任の所在を明らかにするということ。 それに対して親が、或いは周りがどう思うのかは、その人の勝手。 だから意見を言うのは構わないが、あくまでも、自分は~思う という一意見に過ぎず、押し付けやコントロールであってはならない。 親がそこで口を挟んだり手を出したりするのは、その親の不安から出るもので あって、子供の為でもなんでもない。 むしろその行為そのものが子供の自由を奪うものであり、子供の責任を奪うものであり、それは、親としての責任を負いたくない無責任な行為だ。
自分の保身、体裁で子供の自由と責任を奪うのではなく、子ども自身に体験させること、その体験を奪われないように守ることこそ親のなすべきことだと思う。 そう、もっと失敗させ! いかに黙って、いかに最後まで見ていられるか。 そう見守られて子供は初めて自由を知り、責任を覚え、親の存在に 絶対的安心感を得る。 これができてる親って、一握りだとは思うけどね。 だって、自由と責任の意味を知り、実践している親でないと、できないし。
躾や教育と偽って、子供に義務を押し付けている親は多い。 お前の為だとこじつけて、子供の自由を奪っている親は多い。 その全てが、親の身勝手なエゴでしかありません。 余談ですが、よくある、責任を取って辞任する というヤツ。 それのみではまったく責任になってない。 ただ辞めればいいというのは、責任逃れの逃げってヤツ、 無責任極まりないと思う。
責任取るというなら、それまでの経緯を、キチンと明らかにすることの方だ。 問題整理と事実関係の公表、それを認めることこそが責任。 それで初めて、次の対処が生まれるってもの。 親に当てはめても同じなんだけど、親辞めますとは言えないからね。 や、言えばいいのにね。 子供を設けた気持ちを、子育て中の気持ちを、嘘偽りなく話すだけで、 親というより1人の人間としての責任を十分に果たせる。
そういう親からは、その行為を例え子供に非難されたとしても、十分に 人間の自由と責任が伝えられているし、それによって子供も、 自らの自由と責任を、躊躇なく手に入れようとできますからね。 子供は親の鏡とはよく言ったもんだ。 子供を正す前に、親こそ自分の姿を、責任を、御点検あれ!
子のため?自分のため?誰の選択権も奪ってはいけない
子殺しのニュースがある度に思う。 事情はともかく、究極的に、自分がどうしても子供を育てられなければ、子供は手放したらいいと思う。 子殺しはオカシイ、心中もオカシイ。 また、例えば泣く泣く売春をしてまでも子育てをすることが親の役目とも思わない。
もし、子供のことを本当に思うのなら、親自身が先ず生きれることを考え、先ず自分を立て直すことを考え、その為に子供と一緒にいられないのなら、その事実を真剣に引き受けることだ。 究極の、究極の選択として、どうしても育てられなければ、子供から離れて、そして子供にキチンと恨まれる事だと私は思う。
子供が不憫だと思うのは親の傲慢だ。 一緒にいられることが子供のためと思うのは、自分の保身だ。 境遇は子供に責任はない。 だからこそ先ず親が生きれるようになってから、子供に謝罪するなり、一生恨まれるなりする方が、子供は自分の境遇を事実として受け止め、自分のこととして人生を選択できる。 親の事情を、親の生き方をちゃんと理解できる。
子供に被けて、子供に逃げて、子供に依存して、自分の弱さをすり替えないで下さい。 子供を手放すなんて とか、子供を捨てるなんてと世間は言う。 当たり前ですよ、私もそう思います、けれども私は、子供を手放す人が弱いとは更々思わないし、子供を抱えて極限状態で耐える人を強いとも思わない。 子供への養育責任を背負うより、十字架を背負う覚悟の方がよっぽどすごい。 ほんとの事情なんて他人には解らない、 だったら、先ずは自分が生きることのために思案すること、 そこから始めることだと思う。 世のため、子のため、親のためなど、どうも胡散臭いな、全ては自分のため、そこから考え行動し、責任を持つ。
親の問題
子供が不登校になってしまうと、殆どの親は、先ず元に戻そうとする。 手に負えなくなると、病院やカウンセリングや、はたまた占い的なものまで回って、 何とか、今までのように前向きな子供に戻そうとする。 そうしてさんざん悩んだ挙句、卒業さえしてくれればいいと思うようになる。 さらに、鬱とかになったら、健康でいてくれればそれだけでいいと祈る。
これが世間一般の、ごく一般的な親の話でそれは当然なのかも知れない。でも、 これじゃあ子供は戻らないよ。そもそも治そうと思っている時点でおかしいですし、 子供が望んでいるのはそういうことじゃないよ。
親のしていることは、何とかこれ以上下がらないように落ちないようにしたい、 頑張れ堪えろと子供を煽っているようなもの。 籠の中に閉じ込めて、終わらないランニングマシーンに載せているようなもの。 ストップボタンも籠の鍵も親の手の内。この状況から逃れるには、病気になるのも当然です。
今の世の中、まだまだ学歴資格優遇時代、そのレールに乗せて、 当たり前のように上へ上へと頑張らせたがる。 まるで家庭はロボット製造所、 しかしコンピューターロボットになりきれない子供は、ゾンビ化して彷徨ってしまう。 それが子供を苦しめているのですよ。
子供をコントロールしていませんか? 無条件で愛していないでしょ? 落ちてもOK。辞めてもOK。好きにしなさい、がない。 思い当たらない?その無自覚さが厄介です。 上昇志向の空気が、確実に、邪魔しています。 そういう気流に乗っていられる、走っていられるうちはいいのですが、 苦しくても、ストップボタンを付けられてませんので、故障するしかない。
問題は親の方です。 子供は病気でもダメでもない。ただ、苦しいのです。 どうか、子供を放してください。 それが出来ないあなたの苦しみは、あなたの問題です。
世の為に頑張っているお父さんたちへ
世のため人のために頑張っている皆さま! あなたの周りの身近な人は幸せですか? あー楽しい あー面白い あーしあわせ って 口々に言われてますか? あなたのご家族は笑ってますか? あなたのご家族が何を想い 何を考えているのか ご存知ですか?
世の中のために頑張っているお父さん。ご家族のために頑張っているお母さん。 あなたは あなたのご家族と、 一日どれくらい会話をしていますか? 一日どれくらい 一緒にいられてますか? 世のため人のための裏側で、 子供に興味関心がない 或いは放ったらかしの自覚あるお父さん、 社会や万人を相手にしていないで それそろ生きた生身の 目の前にいる家族と対話 はじめて下さいよ。
世の中を善くするのは、 自分が、 「生きてるっていいな!」 という感動を味わってからにしてくださいよ! でないと、 方向が解らないじゃありませんか。 自分が 家族が 「家庭っていいな!」 と感じられなければ、 この社会が 輝ける筈ないじゃないですか?
親の歪みとその影響
この世界、この世の中『歪み(ゆがみ)』がなければ成り立たない。 それは人にも言えます。 『歪み』とは、完全でないこと。そして、この世にいる人間はみな歪みを持っている。 そしてまた、歪んでいるからこそ関わりたくなる。 ああだの こうだの と、なんやかんや言いながら関わりあうことで成り立っている。
『歪み』に善悪などない、 単に、あっていいもの、なくては困るもの。 その基本形、最小集団が家庭。歪みに触れる始まりが家庭。それを通して、それを感じながら、 自分を認知していくものだと思うのです。 つまりね、親から子へ歪みが伝わり、それをどう扱うかは自分の個性。 寄り添って生きられれば最高かも知れないけれど、 個性が違えばそうはいかない。 子供が巣立つには、添うばかりでは巣立てない。 歪みの中で苦しんでこそ、そこから自分を確認し、巣立つ。 家庭とはそういうものなんじゃないかな。
さて、全ての人は、自分の親や養育に深く関わった人から、自分の人格に 多大な影響を受けています。 多かれ少なかれ、親は子に、自分流の価値観やものの見方を教え、無意識的にもそれを押し付け、自分(親)の支配下に置こうとします。 そうよ、親だって1人の人間、動物。 自分の存在をこの世に記す為には、身近な人にアピール、マーキングするでしょ。 そこに善悪はない。 あるとすれば、それぞれの主観。
でも、親から偏った見方や考え方を刷り込まれた子供は、自分の主観が 解らなくなってしまうことがある。 それを親のせいだと責めるもよし、恨むもよし。 だけど、子供であっても、その瞬間の言動は、自らが自分の意思で選択している。 つまり、親も子も、自分の存在をアピールする為に、自分流のやり方で その瞬間を生きているということです。 親子だからといって、人格、物の見方や考え方はまったく違うもの。 だから、その家庭にいたら自分が自分で居られないと感じたのなら、 離れることです。
どうしても許せなければ、親を捨てなさい。 所詮、家庭とは子供が巣立つのに必要な歪んだ巣。 繰り返しますが、歪んでいることが悪い訳ではない。 自分の個性がその歪みと対峙しながら、自分とは何ぞや?を知っていく為の プロセスに過ぎない。
ただ、巣立ちきれなかった人が家庭を持ったら、その子供が巣立つのに苦労する。 親の凝り固まった支配にがんじがらめにされるからね。 親のしがみつきを振り払えない子供は迷い苦しむ。 歪み過ぎた巣からの巣立ちは困難を要する。 だからといって、自分の選択は叶う。 先ずは自分の主観がどこにあるのか、それを取り戻すことです。
劣悪な家庭環境、無責任極まりない親。 そういう家庭で育っても、自分が被害者だと思っているうちは始まらない。 自分が主体性を回復したいと思わなければ始まれない。 どれだけ慰められ励まされ、勇気づけられようと、 自分が自分のこととして、自分の人生を生きたいと思いはじめなければ、 何も変わらない。 過去を過去にし、初めて今を生きられる。 全ては自分の手の内にあるものだから。
対峙するということ
自分を見つめなおしていく過程において、過去の体験や親について掘り起こし、 あのときこうだった、ああしたかった、こうしてほしかった などと思い出していくことがある。 当然、親と対峙することもあり、過去に言いたかったけど言えなかったことや、 わからなかったけど思い出したり解ってきたことなどを話し始めることは、うんと大事。 対峙して話して親に理解してもらえることは、これまた、うんと大事だが、 きちんと理解してくれる親は、残念ながらあまりいない。
でも親と対峙する目的は、親に解ってもらえることではなく、 対峙しながら客観的に正確に親の反応を見ることで、きちんと見切れることにある。 「親は理解できないんだ」と理解できたり、或いは、 理解できない親と距離を持つことで関わらないようにし始めるとか、 要するに、親のことを客観的に解ることで、過去の済んでいなかった気持ちにケリが着いて、関係が変化してくる。 そういう意味で、親との対峙はした方がいいと思うが、 親との関係が済んだとしても、自分が自分のことをちゃんと知らない限り、 苦しみは終われない。
子供は、百歩譲って、子供という立場からすれば親の被害者であっても、 だから自分はこうなったと言いながらでは生きられない。 他人や世間は否応なく自分に関わってきて、それらを振り切るには引きこもるしかなくなる。 それができてるうちはいいが、いつまでそうしていても始まらないだろう。 自分が自分と向き合うということは、自分の中に棲む奴らと話をつけるということ。 親にしたように、自分が自分とぶつかって、ケリつけることです。
親との対峙、その最終目的
親と対峙すること。親に、今までの自分の気持ちや言いたかったことをぶつけることは大事なこと。繰り返しになりますが、 その過程では、親に込上げてくる怒りをぶつけ罵倒したり、訴えたりすることがある。 そうしながら、自分の言いたいことの整理と、親の反応を通して自分の気持ちにケリがついていく。 多くの場合、真剣にぶつけている自分に対して、親の反応があまりに簡単だったりお粗末だったり、 時には逆ギレしてくる親の正体を突きつけられ、見切りがつくことも多い。
親の呪縛から覚め、それは諦めにも近いが、自分の人生を歩む決意も生まれ出す。 しかしその過程は、生易しいことではない。 親と対峙していくことの最大の目的、 それは、親にぶつかることで自分の正義を証明することや、親に気持ちを解らせたり、 または親を変えることではなく、親に左右されない自分を勝ち取れること。 親から解き放たれ、誰にも縛られないで生きれる自由な自分を手に入れることです。 だから、ただ闇雲に親を攻撃したり、親に非を認めさそうとしても何も変わらない。
相手に認めさすのではなく、自分が宣言できること。 その為に親に立ち向かうのです。 これ、裁判なども同じことだと思います。 相手に非を認めさせたり世の中を変えることより、自分が受けた屈辱から解き放たれ、 人や世の中から変えられない、縛られない自分を手に入れることだと思うのです。
感情のフラッシュバック
生きづらさの根本原因である自己不一致とは、親との関係の中で「こうあるべき子供」として何の疑いもなく育ってきた人に多い。ただこれに気づくとき、その、後天的に作られた形状記憶状態を戻す作業は難しい。
生きづらさを抱える人の人間関係には、人に対する恐怖や怯え、更には不信感があります。基をたどればそれは親子間で作られ、つまり家庭の中で、怖さや色んな気持ちを抱く暇や出せる空気がなかったことで感情をなくし、迎合することに馴れてしまいます。だからこそ、親以外の他人に相対したとき、本来の自分を出せないままの自分ながら、当時感じることすらできなかった恐怖が先にでてしまい、本来できる筈の会話や仕事に支障をきたしてしまうのです。
これこそが感情のフラッシュバック。日常・慢性的にまかり通っていた未必の故意に他ならないのです。フラッシュバックとは、当時は感じることができなかった、或いは感じきれていない感情を、今の自分が再体験することで感じ直し、それを正しく理解し、今の自分が昇華できるまで続きます。
そしてそこから脱却するには、当時は支配されコントロールされていた自分が、今、その間違った関係と相手を正しく非難し、今の自分は親の支配には屈せず、絶対に従わないと宣言できること。その為に親と対峙できれば一番いいのですが、怖かったり怯えビビッてたりと簡単ではない。だけれども、その一歩としてやれることは自分の感情を感じる許可を出すこと。いつものような、「はい、わかりました」「ありがとうございます」ではなく、「いちいち決めつけるな」「うっせーよ」「指図すんな」というような反感を許可すること。それから、相手から押し寄せてくる正論に、「そこじゃない」と思えること。
親と居ることの無間地獄
引きこもってる3年間は無間地獄だった。母という人間、父という人間、彼らと一緒の空間にいるだけで無間に苦しさが沸いてきた。
それは自分という存在が伝わらない苦しみ。もがいてももがいても底なし沼から出られないような、吸っても吸っても窒息してしまう気体の中にいるかのような苦しさ。まるで鳥かごの中に閉じ込められ、そこから出られないような感覚でパニックを起こしそうになる。
幼少の頃から蓄積されたマグマのような怒りが、一番身近に居たであろう2人の人間に1mmも伝わらないという現実の手応えは、無間地獄という言葉がピッタリだ。
今なら、「彼らと一緒に居るままその地獄から抜け出すことは不可能だった」と確信できる。一緒に居る中で、自分という存在が伝わらない・認識されないという現象が実際に目の前で起こり続けるのだから。それを自分が体験し続けるのだから。
誰かに「そのままでいいんですよ、変わろうとしなくて大丈夫ですよ」という類の言葉を与えてもらったり、自分なりにもがいてはいたが、親と一緒の生活では限界があった。
“彼ら”という存在そのものが、「僕が認識されない世界」を現実にさせる。
あの無間地獄の生活・世界に、僕はもう二度と戻るつもりはない。
たつろう
毒親に育てられた子供
毒のある親が子育てをすると、子供に毒が移ります。いくら親が無意識だとしても、それは結果として毒を盛られたことになります。
その毒がジワジワと子供の心そして精神に影響を及ぼして行くのですが、それにかかる時間は知らず知らずに年単位で蓄積されます。
その毒が回った子供は対人関係で苦しみますが、それが毒のせいだと気がつくには更に時間がかかります。
やがて心をむしばみ、どうしてこうなったのか分からず、神経がズタズタになる頃には成人となり、問題行動が起きたとしても親に毒親としての自覚はなく、「育ててやった」「成人したら自分の責任」と言い放たれます。
自分の親が毒親だったと自覚するのは辛いことなのに、親から、いとも簡単に自己保身と突き放しを食らったら、どう生きていけばいいのでしょう。
この苦しみが親のせいならそれを分かられたいと思ったり、責めたくなるのも当たり前。ですが、無自覚な親の毒が回ったのですから、親の側に居続けることで解決や解毒は期待できません。
自分でも訳の分からない毒というものがもたらした弊害の多くは、対人における弊害です。対人恐怖や人との摩擦、そこにあるのは自己否定や自尊心のなさです。
解毒は簡単ではありませんが、抜ける毎に楽になれます。
そして解毒とは、親から受けた抑圧、マインドコントロールから解放されること、解脱できることです。
ですから着手すべきは、それが何なのかどこがそうなのかを突き止めることです。